『進化倫理学入門』を読んだ……のか?

 

進化倫理学入門

進化倫理学入門

 

この本を読んだ……のか? ということになる。一応、日本語で書かれている文字はすべて目を通した。だが、おれの目は確実に滑っていた。目が滑る、という表現が正しいのかどうかも知らぬが、実感としてそうなのである。これをもって、「黄金頭という人間はこのくらいの本が読めないのだな」というどうでもいい目安になるといってもいいだろう。

とはいえ、興味があるからこそ手にとったのである。おれの興味は進化心理学にあって、そこのお隣のような「進化倫理学」に入門してみてもいいんじゃあないか、という心づもりである。

実際、本書の目的の一つは、道徳的な品性(moral decency)は生物学的な起源をもつという考えを擁護するところにある。

 というわけで、人間の倫理いうものも、なにか神に与えられたりしたもんじゃなくて、ダーウィン進化の結果成り立ってるものやで、というあたりだろうか。たぶん。

それで、「適応が必ずしも適応的ではない」とかいう言葉(たとえば、高脂質の食物を好む性質は、高脂質の食物が簡単に口にできるようになった現代において「適応的ではない」)に、なるほど、と思いつつも、やはり目が滑る。章の冒頭の引用文などが目に入る、といったらいいだろうか。

なぜ誰もが、腕を生やすことを学習するのではなく腕を生やすようにデザインされていることを、当たり前だと思っているのだろうか。道徳システムの発達の場合でも同じように、多岐にわたって詳細な応用可能性をもつ、いわば道徳判断のシステムと正義の論理を、我々に発達させることを結果的に要請するような生物学的資質があると結論すべきだ。

ノーム・チョムスキー『言語と政治』

ところが、これが、本の終わりの方に出てくる、道徳の実在論とか非実在論となると、まるでわからんのである。道徳の実在? 非実在? なにそれ? という話である。西洋思想の基盤をもつ人間からすれば入り込める話かもしれないが、そういった話に良くも悪くも地盤のない東洋、あるいは日本人の、しかも高卒程度の学力では、おおよそ見当もつかない。

が、しかし、本書を読み、さらに入門の先の論文(もちろん日本語ではない)にアクセスできるような人には有用な本なのかもしれない。もちろん、想像だが。

以上。

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新しいマズローのピラミッド ダグラス・ケンリック『野蛮な進化心理学』を読む - 関内関外日記

まあ、しかし、たとえば上の本と照らし合わせるというか、基本的な部分で違う言い回しなどされると、いくらかはためになったと思えるわけではある。

新しいマズローのピラミッド ダグラス・ケンリック『野蛮な進化心理学』を読む

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野蛮な進化心理学―殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎

野蛮な進化心理学―殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎

 

おれは目下のところ進化心理学が好きだ。そして、目に止まったのがこの本だ。思ったほど「殺人とセックス」について書かれているわけではなかった。入門書としておすすめです。

で、冒頭に掲げた新しいマズローのピラミッドの話からする。著者は進化心理学の考え方をマズローのピラミッド(これは検索すりゃすぐ出てくるだろ)に取り入れて、新しくしてしまう。ともかく、繁殖ありき、これがベース。マズローが最上級に据えた「自己実現」や、「承認欲求」といったものも、繁殖のため(=モテるため)の要素にすぎないとしてしまう。身も蓋もないといえばない。しかし、自分の遺伝子を残す(必ずしも自らの子を残すことでなくともよい。包括適応度。「2人の兄妹、4人の甥、8人のいとこのためなら喜んで命を差し出すだろう」)ことが、現状生き残ってきた遺伝子の、ダーウィン進化のなかで勝ち残ってきた理由である、そういうわけだ。

ちなみに、ピラミッドが階層上になっているのは、人間の心いうのは「下位自己」(モジュール)なるものが常に席を争っているからだ、というところによる。場合によって必要な「下位自己」が主導権を握る。その下位自己を著者は大きく分けて、「チーム・プレイヤー」、「野心家」、「夜警」、「強迫神経症者」、「独身貴族」、「よき配偶者」、「親」としているが、詳細は本書をあたられたい。ともかく、目の前でヤクザが歩道を占拠しているときに「野心家」や「独身貴族」ではいられない、ということだ。

まあいい、そんなわけで、新しいマズローのピラミッドだ。これを是認するか否認するか、人それぞれだろう。人間の芸術への動機いうもんは、繁殖とは別のものである、という意見もあるだろう。が、おれとしては、そういう遺伝子が今現在存在しているというのならば、それなりに繁殖というものに寄与しているのだろう、と考える。

……が、「本当にそうなのか?」というと、おそらくエビデンスいうもんが出せないのがこの分野なのだろう。そのあたりは訳者代表の山形浩生が「訳者あとがき」で十分につっこんでいる(あと、著者のちょい悪モテオヤジ自慢話についても)。

……進化論的な説明はしばしば、見てきたようなお話に堕してしまう。たとえば人類が直立するようになったのは、森からサバンナに出てきて、サバンナだと立って遠くを見られたほうが有利だからだ、といった説明だ。だれもそんなのをみたことはない(ちなみにこの説は最近疑問視されている)。もっともらしいけれど、でも仮説の域を出ない。本書の多くの議論も、そうした突っ込みの余地はかなりある。

そうなのだ、「だれもそんなのをみたことはない」のだ。タイムマシンで過去のある時期に飛べたとしても、人間が直立するようになった経緯を見ることはできないだろう。

とはいえ、本書では著者が行ったいろいろな実験についても触れられている。が、やはりここもつっこみどころがある。

 そしてまた、実験心理学でよく聞かれる批判も、本書にあてはまるだろう。手近な大学生を捕まえて実験しただけで、全人類についてあれこれ言っていいんだろうか。ケンリックの実験はほぼすべて大学の中だけに閉じこもっている。どこまでそれって一般化できるの?

これは、読んでいて思ったところである。だいたいにして、「ロマンチックな気分にさせた」(=エロい気分にさせた)被験者、といったところで、それをどうやって確かめているのさ? みたいな。しかし、それでも、そういった事柄を実験によって確かめてみて、論ずることができたというのは革新的なことだったらしい。「政治的な正しさ」や、ある種のフェミニズムによって、題材だけで否定されてきた時代に比べれば、と。

それでもまあ、わりと全人類についてあれこれ言ってもよさそうなこともある。たとえば、「男性が自分より若い女性を好む現象」が「アメリカの文化規範」、「現代メディアのイメージ」の産物かどうか調べたあたりとか。これについては、1920年代のアメリカの記録や、オランダ、ドイツ、さらにはインド、アフリカ、太平洋の島々、フィリピンの人里離れたポロという漁村における1913年から1939年までの結婚時の年齢データ、17~19世紀のアムステルダムの結婚の記録まであたって、「そのようだ」と結論づけている。このあたりは、さすがに「全人類について」の傾向として語ってもいいような気がするのだが、さてどうだろう。

つっこみどころがあるかもしれない点については、たとえば人間が怒った女性の表情に比べて、怒った男性の表情をすぐに察知する、というようなことだろうか。怒った男性の方が身体の強さによりより危険であり……というような考察。あるいは、男性は女性にくらべて、恋愛において「しなかったこと」をより後悔するという考察。

が、おれが進化心理学について面白いと思うのは、逆にそのあたりなのである。もちろん、実験において脳をスキャンして物理的に観察できたほうが望ましいのであろうが、いろいろの推察をしてしまうところがいい。というのも、おれのような文系極まりない人間にとって、数値がどうの、海馬がどうのいうよりも、ストーリーとして面白いほうが面白い、ということなのだ。いかんともしがたいところではあるが、しかしながら著者も行動経済学認知心理学力学系理論とやらと進化心理学の結合について語っているし、「お話」の時代もすぐに過ぎ去るのかもしれないが。

とはいえ、今のところは男女の関係も、信仰心も、なんでもかんでも繁殖のため、という考え方にのっかてみてもいいだろう。おれはそう思う。人間の道徳や倫理いうものも、自然淘汰のなかでより有利にそれらが働いたから、という考え方が好きだ。神というものもそういうなかで生まれたとかも。ちなみに、アメリカのリベラルが婚前交渉などに賛成し、保守派が反対するのは、前者が自由競争のなかで種を残す自信があり、後者はその自信がないためであるとかないとか。

最後に、著者の見解を二つほど紹介して終わろうか。

進化と偏見というものについて、引用の引用になるが。バーバラ・キングソルヴァーという人曰く。

 私たち人間はたとえそれが認めがたいほど極端なものであったとしても、過去にいくつかの適応があったという事実を受け入れる必要がある。そうした適応が、私たちが舵をとらねばならない流れの途中にある不動の岩礁であることを知るためだけにも、そうするべきなのだ。

 太古の部族時代から受け継がれてきた無数の過去の遺物が、私たちのDNAのらせん構造の上で踊っている。(中略)もしそうした縄に縛られているのを不快に思うなら、最も望ましいのは、ヘビの喉を抑えるようにそれをつかみ、その目で見つめて、その毒を見つめることだ。

たとえば、男性の暴力性(アメリカの殺人の九割が男性によるもので、被害者の七割も男性だ)について、それが現代社会の文化的なものによると断言するよりも(もちろんそういう側面があるにせよ)、「過去の遺物」を見るほうが毒を制することにつながるかもしれない。

そして、ジョン・ロックの「空白の石版」(タブラ・ラサ)という古い喩えから離れるための、新しい喩え。

 私はこれまで、空白の石版のかわりに、心をぬり絵帳として考えてみてはどうかと提案してきた。

 

 ぬりえ帳の喩えは実際の人間の脳をありのまま表現するものではないが、空白の石版というイメージに対する、わかりやすい対比になっているはずだ。この対比で、空白の石版というお馴染みの強力な喩えを概念的に拡張して、心と文化の相互作用をもっと鮮明に視覚化できるだろう。実のところ、この喩えは空白の石版に立脚するものだが、心が外部からの入力によって満たされる巨大な空白ばかりでなく、あらかじめ書き込まれた輪郭線をもっていることを想起させるのである。

さて、皆さんはどう思うだろうか。おれは輪郭線がある、というところをとりあえずのところ信じている。人間心理のなにもかもが後天的に空白に書き込まれるものではないと思っている。男女の心理についても、とりあえず違った形で進化してきたというところに立って、そこから平等の話を始めるべきだろうと思っている。そして、おれという単体の今後には縁のない話ではあるが、あらゆる人間が自分の遺伝子(同じ血脈含む)が残る方向にたまたま適応してきたものの子孫であるということにも、あるていど納得せざるを得ないのである。

 

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また会おう、カントリー。『ブラッド・エルドレッド 広島を愛し、広島に愛された男』を読む

 

ブラッド・エルドレッド~広島を愛し、広島に愛された男

ブラッド・エルドレッド~広島を愛し、広島に愛された男

 

 プロ入り後、アメリカで数多くのチームに在籍したけど、将来、自分の野球人生を振り返ったときに真っ先に思い浮かぶチームはカープ。もちろん、アメリカにもいろいろないい思い出はあるけど、日本で過ごしている時間があまりにも濃くて有意義で。

 やっぱり、ぼくの野球人生は「カープとともにあった」という表現が一番しっくりくるし、野球人生がまだ終わっていない時点でそう言い切れることがものすごく嬉しい。いまは、カープで現役生活を終えたいという思いでいっぱいだ。

この本が出版されたのは2018年の3月。カントリーことエルドレッドカープで現役生活を終えたかどうかと言うと……微妙なことになっている。カープは2019年の契約をしないことにした。エルドレッド、別の球団での現役続行を模索するという決断をした。しかし、新しい球団は今のところ決まっていないようだ。

カープファンとして、できることなら赤いユニフォームで引退式をしてほしいと思う。だが、まだ本人が野球人生でやることがあるというのなら、それを尊重するしかないだろう。

カントリーとケニー

ブラッド・エルドレッド広島東洋カープにもっとも長く在籍した外国人選手。最強の外国人選手だったかどうかは評価の分かれるところだろう。もっと短い期間で大きな結果を残した選手もいるだろうし、エース・ピッチャーとしてローテを支えてくれた選手もいる。が、広島を愛し、広島に愛されたという点で、エルドレッドは最高峰の選手に違いない。

と、言っておきながら白状すると、おれはエルドレッドに三年目があることに懐疑的だった。野村謙二郎監督の強い要望という話が出回っていたが、これも白状すると、おれは野村謙二郎監督にも懐疑的だった。だが、エルドレッドは三年目のチャンスを得て、ホームラン王になった。

本書に寄稿した野村謙二郎はこう述懐している。

 巷では、球団が解雇の方針だったところを、ぼくが強く引き留めたかのように報じられているようですが、

「クビにするから」

「ちょっと待ってくれ!」

といったような極端な話ではなかったような気がします。

そうなのか。

「監督はどう思う?」と聞かれたので、「この2年間の日本での経験が生きて、来年は配球などももっと予想できるようになると思う。また新しい外国人を獲って、、1年目に日本の野球に混乱するくらいなら、3年目のカントリーに期待したほうがいいんじゃないか」と。そんな流れだったと記憶しています。

ふむ。そして。

 でも「彼に3年目のチャンスを与えてほしい」と答えた最大の理由は、かれの人間性と野球に真摯に取り組む姿勢に惹きつけられ、惚れ込んでいたからです。彼の人間性が、ぼくを突き動かしたといったほうが正しいかもしれません。

常に全力プレーを心がけ、練習に取り組み、まわりのだれからの評判もいい。人間性と野球のプレーは直接関係ないかもしれないが、プレーする機会を得るチャンスというものには関係するかもしれない。あるいは、野球のすべてが数値化されていっても、そういうところは人間のすること、なにかしら残るだろう。そしてもちろんおれも、手のひらを返して「エルドレッドカープになくてはならない存在だ」と思うようになったよ。戦力外通告は悲しかったよ。

 

カントリーとチームメイト

さて、そんなカントリーはどこから来たのか?

……「出身高校と出身地はどこ?」とぼくが聞かれたら「PL学園です。マエケン、小窪は高校の後輩になります。出身地はPL学園のグラウンドがある大阪府富田林市です」と返すようになったんだ。

……という冗談を言うようになったのは、日本の高校野球を見て感化されたから。ちなみにカントリーは「松坂世代」とのこと。あと、ピッツバーグ・パイレーツ桑田真澄とわずかな期間チームメイトだったとのことで、桑田はカントリーを球場で見つけると話しかけてくるそうだ。

チームメイトといえば、やはりカープのチームメイト。

 日本から完全に引き揚げる日が来たときに、アメリカの自宅に絶対に持ち帰ると決めているのは、新井さんが2000本安打を達成したときに配られたサイン入り記念バットと黒田さんが引退した際にもらったサインボール。この二品は我が家の家宝だよ。

 なんと新井さんは「英会話が上手」とのこと。それに、菊池涼介の守備は「もはやアンビリーバブルな域」で、しかもいつも笑いにつながるようなことを考えているという(バティスタも「ラテン系だと思う日本の選手は?」という問いに「菊池と筒香ベイスターズ)」と答えていたっけ)。田中広輔は新人で迎えたキャンプの初日、エルドレッドから声をかけてキャッチボールをしたという。そのことを田中は忘れずにいて、「すごく嬉しかった」と後年話をしたという。そして、丸は同じグラブを長く使い続けていて、同じくビンテージものを使うエルドレッドと臭いを嗅がせ合う仲で、「鈴木誠也の実力は認めるけど、娘との結婚は認めない」のだとか。

 

若き日のカントリー

そんなカントリーの幼少期、やはり身体はずば抜けて大きかったらしい。そして、将来の夢は「プロのアスリート」。野球のほかにバスケットボールとアメリカンフットボールもやっていたらしい。そういうのはアメリカではよくあるケースだろうけど、それが高校まで続くというのはやはり日本とは違うよな。しかし、そんな二刀流、三刀流が当たり前の国で、メジャーリーグの中の話となると、大谷翔平が驚かれるというのもなかなか興味深い。

ちなみに、最初の指導者は父親で、せいぜい「顔を上げるな」くらいしか注意はされなかったという。高い位置にバットを構えるスタイルも、バットを上下動させる(ヒッチ)も、マイナーの最初のコーチから「なかにはそれが合っている選手もいて、君はそのタイプだから矯正することはない」と言われたらしい。まあ、アメリカにもコーチとの不運な出会いで潰れていった選手もいるだろうけど、そんな話。

 

カントリーの仕事道具

さて、エルドレッドの仕事道具。なに、こんな本でも読まなければわからないこと。ちょっとメモしておきたいじゃないか。

 愛用しているバットは、アメリカのオールドヒッコリー社製で長さは34.5インチ(約87.63センチ)、重さは約935グラム。他の選手たちが使用しているバットは長くても34インチ(約36.36センチ)なので、おそらくカープで一番長いバットなんじゃないかな。グラブとファーストミットはウィルソン社製。今使っているファーストミットは、すごく気に入っていて、紐を入れ替えたりしながら、何年も使い続けている年代ものなんだけど、そろそろ寿命が近づいているかな……。

 スパイクはニューバランス社製。2015年までは底の歯がすべて金具のスパイクを使用していたんだけど、2016年から両足のかかと痛に悩まされるようになってね、かかとにかかる負担を減らすべく、歯の部分を金具からプラチック製のスタッド式に変更した。

 2016年のオフにかかと痛をやわらげる目的で専用のインソールを特別に作ったんだけど、これをスパイクの中に敷くと痛みを感じなくなるので、去年はずっと使用していた。このインソールが、ぼくの野球人生を救ってくれたと言っても過言ではないよ。

インソールひとつで野球人生が左右される。すごいことだ。ひょっとしたら、なにか用具ひとつの違いで、怪我でもして無名のまま球界を去ることになった選手が、実はベストナインになった可能性がもあったかもしれない。まあ、トップ中のトップの集まり、あらゆる戦力外通告に当てはまることかもしれない。

 

今後のカントリー

さて、カントリー。本書の中でも引退が近いことは自覚している。

 引退後のプラン? うーん1年くらいはゆっくり休みながら、その先を決めたいという気持ちがいまは強いかな。

 引退後のプランとして、やってみたいと思っていることのひとつは、チャーター船に釣り人を乗せて、釣りのポイントまで運ぶチャーターフィッシングの仕事かな。最大の趣味が釣りなので、釣りに関わる仕事はぜひやってみたいなと思う。

城島健司か。

でも、やはり野球には携わりたいという。

 野球との携わり方はいろいろあるんだろうけど、指導者をやってみたいという思いもあるよ。

 プロに入ったばかりのころ、経験の乏しいマイナーリーガーとしてわからないことがたくさんあったけど、そんな経験も指導するうえでのヒントになったりする。ぼく自身、「球団とどう交渉すればいいのか」「どうすれば野球が上達していけるのか」といったことでけっこう悩んだり、つまずいたりしたので、若手にアドバイスを授けていけるような、相談役とエージェントを兼ねていけるような存在もありなのかも、と思ったり。

そしてまた、こんなことを言ったりする。

 好きなことはなにかと尋ねられたら、ぼくは「野球と釣り」と答える。だから、この二つを組み合わせたような仕事ができないかなと考えたりもする。チャーター船に若い野球選手を乗せて、沖に出て、釣りをしながら野球の経験を語ったり、船上でバッティングの技術指導をしたりね。そんなことも面白いかもと思ったりするよ。

なんだよその野球船。アメリカ文学みてえじゃねえか。キャッチャー・イン・ザ・ライならぬ、バッター・オン・ザ・シップ。雄大だなぁ。そして、船の上で野球指導って、あれか? 稲尾和久か? まったく、素敵だな。日南カントリー丸。悩める大砲候補を優しく育て上げる。悪くない。

いや、現実的な話として、本人も例に挙げているカープの駐米スカウト、そして「野球は楽しい!」という心がけでで指導者になってもらいたいというのもある。2019年からいきなり二軍のバッティングコーチになったとして、反対するカープファンは半分以下なのではないだろうか。きっと、指導者に向いていると思う。マイナーリーグを、各国を渡り歩き、異国の地で成功をおさめるその野球への姿勢、人間性。きっと、良いところを伸ばせる指導者になれるんじゃないかって、思うのだけれど。

しかしもう、カープの現役選手としてのカントリーは見られない。それは悲しいことだ。けれどカントリー、いつか何らかの形で、カープの一員として戻ってきてくれ……。

 そして、真っ赤なスタンドを見渡すと背番号55がついたシャツを着たファンが大勢確認できる。それはもう、ぼくにとっては「オー・マイ・ゴッド!」とつぶやきたくなる素晴らしい光景でね。あらなるエクストラなモチベーションが湧き上がってくるよ。

 「もしかしたら、ぼくがそのとき目の当たりにしたファンにとっては、その試合がシーズンで唯一観戦できる試合なのかもしれない。もしかしたら、人生で最初で最後の試合かもしれない」

 そんなことを考えたりもする。

 「この人たちのためにホームランを打ちたい! この人たちの喜ぶ顔を見たい! 背番号55のシャツを着用していることを誇りに思ってもらいたい!」

 気づけばそんな思いでいっぱいになるんだ。自分の応援グッズを身につけているファンを見ると、選手たちはみんなそういう気持ちになるものだよ。

 

こいつはどこに歩いていこうとしているのか ― 黄金頭『ずったら ずったら 関内関外日記アンソロジー』を読む

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黄金頭の『ずったら ずったら』を読んだ。まず第一に言いたいのだが、文字が小さいのだ。そして、その文字がぎゅうぎゅう詰めになっている。11編の断片がそれぞれ勝手に主張していて、それがなにかひとつの「圧」になっている。
文章は悪くない。いろいろな作家などの影響を受けて、それらしく書かれている。それらしく書かれたものは、それらしければ、それらしく見えるものだ。だから、こと文章に関しては横浜市中区■■町界隈ではいちばんに上手といっていいだろう。そして、印刷された写真もなかなかのように見える。

 おれはおれの失敗を立案を、実行を反芻しながら家路についた。べつの帰り道を選ぶことや、トイレに寄る寄らない、そんな選択で、おれがこれに関わらなかったという樹形図はいくらでも展開できるが、それは関係ない話だった。

―「小さな犬を救えなかった話」

 

ただ、「圧」の行き先が不明なのである。どこを向いて歩いているのか、どのくらい歩いてきたのか、どこまで歩くのか、皆目見当がつかない。それは読者を不安にさせもするだろうし、場合によっては可能性なのかもしれないが。もっとも、著者自身はそんな可能性など信じていないように思える。

書かれた時期についてもばらばらだが、比較的古い。まだ黄金頭が若かったといっていいころのものすらある。ともかく、なにかあれば書かなくてはいけない、というオブセッションがある。あるいは、なにがなくても、書かなくてはならない。ただそれだけ。その一貫性のなさが少しの面白さでもあるだろうし、逆に著者の圧倒的な顔のなさ、空白の履歴書を表すようでいてつらいところでもある。

そんな著者の膨大な日記のなかから、いくらか読めるものを見つけてきた編集者はなかなかのものだし、写真と合わせて「もの」にしてみせたのは大したことだろう。そして、それに出費し、宣伝をしている人間も、まあもの好きといっていい。

いずれにせよ、読者を選ぶものであるだろうし、おおよそだれかを振り返させることができるものではないかもしれない。ただ、わりと悪くはないぜ、と言っておきたい。おそらく、著者にこんな機会が訪れることは今後ないのだろうし、手に入る機会があるのであれば、入れておいていいだろう。コンビニ弁当一食分、と思って、それで、なにかの事情で消えてしまう可能性のあるデジタルなデータを、紙というわりと保つ媒体にして所有して、たまにちょっとめくってみてもいいだろう。

気配だけそこにあって、遠くから鈴の音が聞こえてくる。

ぼくは紙のようなものでできているのを感じる。

吹く風に舞い上げられて、どこかに飛んでいってしまう。

必要のないものはすべて捨てられてしまった。

必要のあるものはすべて集められてしまった。

ぼくは紙のようなものでできている。

残してきたものなどなにもない、自由になった。

―「ぼくは神のように無造作に作られていて、秋の道をとぼとぼと歩いて行く」部分

……お求めはAmazonで、というわけにはいかない。文学フリマ京都にお越しいただくしかない。

bunfree.net

こちらにお越しいただいて、か-03」買い求められるのがとりあえずの手段だ。「ラーメンが獣臭い」付箋もついてくる。

ただ、著者本人は当日、関内で酒を飲みながら競馬をしているらしく、不在らしい。いずれにせよ、「せっかく文フリに来たのだから、お目当てのなにかほかにも買ってかえろうか」と考えたら、購入を検討してもいいだろう(してください)。

あとは、メールで通販ということもあるらしい。「文字が少し小さいので、100円ショップで買った老眼鏡と合わせて『ハズキノレーペセット』として高く売ったらどうか」という案もあったが、却下されたらしい。

dk4130523.hatenablog.com

 

以上。

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五冊くらい売れたらいいな……

 

チャールズ・ブコウスキー『ワインの染みがついたノートからの断片』を読む

 

おれとブコウスキーブコウスキーとおれ(←だれにも気づかれないことだろうが、これはジェイムズ・エルロイの書き出しのパクリ)。おれは邦訳されたブコウスキーのほぼほぼを読んだつもりだったが、まだ読んでいない本もあった。そして、邦訳されていない、さらに多くの詩や断片があるらしい。

して、おれはこの本を編集したデイヴィッド・ステファン・カロンという人の「序文」に次のような一文を見つけて、飛び上がるような気持ちになってしまった。

……ブコウスキーと同時代のアメリカ人作家であるソール・ペローやジョン・アップダイクと仲良く交わっている彼よりも、パリのビストロでバタイユと一緒にいる、あるいはルーマニアの偉大な作家であるエミール・シオランと冷笑的で辛辣な金言をやりとりしている彼のほうが、ずっとたやすく思い浮かべられるはずだ。

シオラン! おれが2018年最大の出会いだと思ったシオラン! そのシオランの名が、ブコウスキーの本の中に出てきた! おれの好きなものと好きなものが、またつながった。それはおれの好みの根っこになにかしらの一貫性があると思わせてくれることであり、おれが世界の一部を掴んでいるのだな、と感じさせてくれるじゃあないか。ブコウスキーのヨーロッパ性、というものにおれはピンとこないが、アメリカの中で異端であったチャールズ・ブコウスキーというものの出自というものがあるんじゃあないか。いやはや。

たとえば、こんなところはシオランの自殺観と一致するかもしれない。

……わたしはワインを飲み、公園で眠り、腹を空かせていた。自殺こそわたしの最大の武器だった。そのことを考えればどこかほっとさせられた。檻にどこか抜け穴が考えることで、おの檻の中にまだしばらくいられそうな、ちょっとした力を与えられた。

―「ロング缶ビールの半ダースパックを飲みながら書かれた詩学といまいましい人生についてのとりとめのないエッセイ」

タイトルが長え!(千鳥のノブ風に)。まあそれはともかく、「死をポケットに入れて」生きるハンク(ブコウスキーの愛称のひとつです)の姿が見える。マッチョでありながら、繊細な。そう、彼の少年時代の自伝を読めばわかるように、とても繊細で、内気なひととなり。そこに惹かれる。

 そこであなたは今一度考え直し、はっきりと口に出して言う。英文学の教授になるか、皿洗いになるか、二つの選択肢を与えられたとしたら、あなたは皿洗いを選ぶ。恐らく世界を救うためではなく、これ以上の害を与えないために。しかし、もしあなたにそうする気があるのだとしたら、あなたは詩を書く権利を手放さずにいることができ、それは教えられたから書けるのではなく、自分が選んだささやかな道を歩もうとする時、詩が時には力強く、また時には無力なまま、あなたの心の中に入って行ったり、そこから出て行ったりするからだ。もしもあなたがついていれば、飢えるという選択さえもすることができ、それは皿洗いという行為すら死とは無縁ではないからだ。

―「ある特定のタイプの詩、ある特定のタイプの人生、ある特定のタイプのやがては死ぬことになる血で満ち溢れた生き物を擁護して」

タイトルが長え!(二度目)。ともかく、「少数者が選び取った道」についての、ブク(ブコウスキーの愛称のひとつです)の真摯さが見える。ブクは飲んだくれのファック大好きおじさんだが、常に言葉への真摯さがある。そして、生き方への真摯さがある。たとえそれを認めない人がいるにしても。

 戦争賛成の時代の中でわたしは戦争反対だった。いい戦争と悪い戦争の見分けがつかなかったし――今もつかないままだ。ヒッピーがまだ一人もいない時代にわたしはヒッピーだった。ビートが現れる前にビートだった。

 わたしは孤立無援で抗議の行進をしていた。

―「スケベ親父の告白」

そして、世界のなかで真っ当に立っている。おれにはそう思える。

 言葉。ハリウッド・パークの初日で、わたしは競馬場に向かっているところだが、これから言葉について語ろうとしている。言葉をちゃんと書き留めるためには、文章形式を確かめ、人生を生き、それを一行の中に込めることができる強い精神力が必要だ。

―「息づかいと書き方の数学について」

そして、言葉のなかで。言葉について語ること。それはあまりにも難しいことだ。ときどき文章についてほめられることのあるおれはときどき、文章を書くということについて書きたくなるが、それを書くことの困難さ、あるいはそれが傲慢であることを前にして、ついには書けたことがない。「強い精神力」が必要なのだ。ただ、ひとつ小さな、そして本心からのアドヴァイスを書くとすれば、「文章を上達させたければ、日本語ラップを聴きなさい」だ。

ところで、このあと競馬場の場面になって、「ピンケイ」と「シューメイカー」という騎手について語られているが、前者は日本競馬においては「ピンカイ」ではないだろうか。ちなみに、おれは大井競馬場に来たラフィット・ピンカイ・ジュニアを生で見たことがある。おれの人生の自慢のひとつである。

 ある男がわたしにこう尋ねた。「ブコウスキー、もしも文章講座で教えるとしたら、みんなに何をするように言うのかな?」。わたしはこう答えた、「みんなを競馬場に行かせて、どのレースにも五ドル賭けさせるようにするよ」。この脳足りんはわたしが冗談を言っていると受け取った。人類というものは裏切り行為やいかさま行為、立場を変えるということにとても長けているのだ。作家になりたい者に必要なことは、いいかげんで汚い手を使っても逃げ出せないような場所へと放り込まれることだ。

―「息づかいと書き方の数学について」

そして、言葉とは、文章とは、逃げ出せないような場所において立ち上がってくるものだ。そして、逃げ出せない場所といえば競馬場である。寺山修司じゃあないけれど、馬券とはそいつの人生なのだ。

 スタイルとは何の盾もないことだ。

 スタイルとは何の見せかけもないことだ。

 スタイルとは究極の自然らしさだ。

 スタイルとは無数の人間がいる中でたった一人でいるということだ。

「ウィリアム・ウォントリングの『7・オン・スタイル』の出版されなかった前書き」でブコウスキーはこう書いている。掛け値なしにかっこいいし、信頼できる言葉と思える。「たった一人でいるということ」。金子光晴じゃあないけれど、「むかうむきになってる、おっとせい」。スタイルとはこういうことだ。おれはおれのマイスタイルを持っているだろうか。金杯でマイスタイルは買えなかったな。

 まずは、忠告から始めよう……。

 明晰な頭の状態でいることは不可欠だ。交通渋滞に巻き込まれてメインレースぎりぎりに競馬場に飛び込むようなことがあってはならない。早めに着いてゆっくりとやるべきことに取り掛かるか、第二レース、第三レース、第四レースあたりに到着するかのどちらかだ。まずはコーヒーでも一杯飲んで、腰を落ち着け、深呼吸を何度か繰り返す。自分が夢の国にいるわけではなく、無駄にできる金など一銭たりともなく、勝ち馬を見つけるのは芸術で、まわりに芸術家などほとんどいないことをしっかりと頭に叩き込んでおくことだ。

―「馬を選ぶ 競馬場で勝つ方法、もしくは少なくとも損をしない方法」

競馬者として、なんという的確な忠告だろうか。思えば、酒に酔ったりして買った馬券が当たった記憶などない。きちんとコースと馬の血統の相性を見比べて買ったときこそ、馬券が当たるときなのだ。明晰な頭をたもつこと。それが競馬で、少なくとも損をしない方法。

 優れた性格の持ち主でなければうまく競馬をすることはできない。わたしはこんな格言を大切にしている――競馬に勝てる人間なら、自分でやろうと決めたことは何でもやってのけることができる。

 ―同上

うまく競馬をすること。「お馬で人生アウト」にならない人間。おれが優れた性格の持ち主かどうかわからないが、二十年近く競馬をしてきた。勝ちはしない。しかし、うまく競馬をしてきたようには思う。本当にろくでもない人間は、あっという間に競馬から放り出されてしまうことだろう。あるいは、あらゆるギャンブルから。

 競馬に関してのわたしの最良の忠告は――行くなということだ。

 ―同上

まあ、結局のところこういうことでもあるのだけれど。ブコウスキーはべつの場所では「水彩画をはじめなさい」と忠告していたと思う。まったく。

さて、この本の最後の方には「師と出会う」という中編が収められている。主人公のわたしは「チナスキー」(ブコウスキー自身がフィクション化されたときに使われる名前)だし、師であるジョン・ファンテはジョン・バンテだ。これはもう、必読だろう。

 わたしはセリーヌツルゲーネフ、そしてジョン・バンテの助けを借りて、なかなかうまくいっているという感触を持っていた自分自身の作品の執筆に取り組んだ。しかし書くとういことは途方もない行為だ――いつになってもどこにも辿り着けはしない――近づけはするものの、決して到達することはない。だからこそほとんどみなが挑み続けなければならないのだ――わたしたちはかつがれているだけだとしても、やめることはできない。愚かさというものはしばしば書くことを促し、書くことの助けとなるのだ。

―「師と出会う」

笑われるかもしれないし、あるいはかつがれているだけかもしれないが、これでもおれが書くということに挑んでいると言ったらおかしいだろうか。おかしくてもいい。おれはおれのスタイルを手に入れたい。そして、競馬に勝ちたいのだ。

 

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死をポケットに入れて (河出文庫)

死をポケットに入れて (河出文庫)

 

 

 

勝手に生きろ! (河出文庫)

勝手に生きろ! (河出文庫)

 

 

 

塵に訊け!

塵に訊け!

 

 

死に向かって、淡々と―レイモンド・カーヴァー『滝への新しい小径』を読む

 

滝への新しい小径 (村上春樹翻訳ライブラリー)

滝への新しい小径 (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

読んでいたようで、読んでいなかった、レイ・カーヴァーの詩集。癌におかされ、その最後の日々を短編小説でなく詩に注ぎ込んだ、レイ・カーヴァーの遺作。どこか淡々としていて、それでいて自らの人生を慈しむかのようでもあり、ああ、悲しいな、と思う。まだ、五十歳だった。

彼の人生の遥か彼方にいる人々とか、これまでに会ったこともなければ、

これから会うこともないであろう人々に向かって手紙を書いていると、

そして「イエス」とか「ノオ」とか「ことと次第によって」とか返事をし

許諾の、拒絶の理由をいちいち説明していると、時折憤怒の念が勢いよく燃え上がったが、それもやがてすうっと消えていった、こんなことって

果たして大事なのかな? 何かそこに意味があるのかな?

―「ひとつくらい」部分

カーヴァーの、若い日の詩との出会いも収められている。薬の配達の仕事をしていて、その配達先の蔵書家の部屋で「ポエトリー」という雑誌を初めて目にしたという話。持ち主の老人から「その本を持っていってもかまわんぞ、坊主」と言われた話。

……私はそのときには本当に何も知らない子供だった。でも今だって、その瞬間のことにはうまく説明がつかない。簡単に理屈をつけてかたづけてしまうのは不可能だ。その瞬間に、私が人生においてもっとも激しく必要としていたものが――それをみちびきの星と呼んでもいい――こうもあっけなく、こうも気前よく私の手にひょいと渡されたのだ。その凄い瞬間にいささかなりとも匹敵するような出来事には、それ以来いちどもお目にかかっていない。

―「ポエトリー」についてのちょっとした散文 部分

カーヴァーは短編小説の名手、いや、本人にはそぐわない言い方をすれば巨匠といってもいいのだが、その初期衝動は詩なのであった。そして、人生の最後に詩を選んだ。そのことが伝わってくる。「散文」とタイトルにある詩、なのだけれど。

最後に、彼が最愛の人と過ごせたことについて、ひとつの詩をまるまる引用しよう。

ハミングバード

―テスに

 

僕が夏だなと口にして

ハミングバード」という言葉を紙に書いて、

それを封筒にしまって、

丘の下のポストまで持っていくところを

想像してください。その手紙を

開くと、あなたは思い出すことでしょうね

それらの日々のことを、そして僕がどれくらい、

もうどれくらいあなたを愛しているかということを。

 

 

 

『なぜペニスはそんな形なのか』ジェシー・ベリング

 

なぜペニスはそんな形なのか ヒトについての不謹慎で真面目な科学

なぜペニスはそんな形なのか ヒトについての不謹慎で真面目な科学

 

 というわけで、なにもかも言ってしまうことから始めよう。本書は、何事も進化論的に考えたがる、無神論のゲイの心理科学者の目を通して見た世界である。それにぼく個人の信念を隠しはしないが、ぼくは思慮のない人間でもある。ぼくがあなたにお願いしたいのは、少なくとも十いくつのエッセイを読み終わるまで判断を保留してほしいということだ。

「不適切なるものへの誘い」

まえがきにあたるページで著者のジェシー・べリングはこう述べた。おれも高卒文系ながらダーウィン進化は大好きだ。もしも算数と理科ができる人間に生まれ変われたら、進化論、進化心理学を勉強したいと思うくらいだ。もっともおれは輪廻も神も信じていないのだけれど。

というわけで、十いくつのエッセイから、面白かったところをメモしておく。多くは『サイエンティフィック・アメリカン』に掲載されたものらしいが、その雑誌の値打ちをおれは知らない。あと、必ずしも本の順番どおりではない。

 

「どうしてぶら下がっているの? その理由」

ぶら下がってるのが何かって? 本のタイトルから想像できるだろう。これについては、男性の身体を持って生まれた人間は、非常に痛い思いをして思いを巡らせたことがあるのではないだろうか。そうだ、こんなものぶら下げてるのがおかしい。痛いで済めばまだいいが、もっと酷いことになって生殖機能を失ったりする危険性もある。それは進化論的にどう説明をつけられるのか?

ひとつの説として、進化論における「ハンデキャップ説」がある。本来なら目立ってしまって生存の不利になるのに、逆に「こんなすげえ派手だけれど生きていけるくらい強いのだぜ」というアピール、なんかすげえ派手な鳥とか、そういうのを思い浮かべてほしい。が、人間男性のそれ、そこまで奇抜でもないし、カラフルだったり、光ったりもしない。どうも違うらしい。

では何なのか、というと、温度調整が目的らしい。精子というのは繊細なやつで、活動できる温度がけっこうシビアだ。そこんところを、うまく放熱したりしてきたやつが生存して、多く子を残してきた。その説が有力らしい。

 

なぜペニスはそんな形なのか?

じゃあ、次は垂れ下がっているほうだ。なんで先っぽがそんなふうになっているのか? これについては真面目な科学者たちが真面目にポルノショップに行き、真面目に先っぽがそうなってる性具とそうでない性具、そして女性器の性具を買い、「ふるいにかけた、白いが漂白されていない小麦粉をカップに0.8杯、それにカップ1.06杯の水を加える。これらを混ぜ合わせて沸騰するまで熱し、その後掻き回しながらとろ火で15分。あとは自然に冷めるのを待」った液体を用意し、実験した。

それでなにがわかるのか? それは、先っぽがそうなっている性具の方が、そうでない性具より大量にヴァギナ内にあった精液を掻き出した、のだ。そう、他のオスの精液を掻き出して、自分の精液を残す。自分の子孫を残す。そういう推論だ。ちなみに、「父親の違う二卵性双生児」という例が存在するらしい。どのくらい似ているのか、似ていないのか。

 

早漏のなにが「早過ぎ」?

これも進化論的に考えてみると、無防備な性交の状態をいち早く終えられるほうが有利だろう。チンパンジーなどは「秒」レベルという。むしろ、遅漏のほうが問題だろう。というか、実際、早漏と遅漏は遺伝するという調査結果もあり、遅漏の男のほうがはるかに少ない。で、早漏どうなのか? というと、このエッセイでは「まだわからん」というところらしい。入れる前に出してしまうオスは子孫を残しにくいだろうが、だからといって秒で終わらせるのが普通ではない。そこには、メスとの関係、というものがあるのかもしれない。

 

ヒトの精液の進化の秘密

……日常のことば遣いでは区別せずに言ってしまうことが多いのだが(科学的とは言えないほかの用語もそうだが)、精液は精子とイコールではないということである。実際あなたは、ヒトの男性が一回あたりに射精する平均的精液の1~5%にしか精子(精細胞)が含まれていないということを聞いて、驚くかもしれない。

驚いた。して、精液の精子以外を精漿というらしい。その精漿には50種類以上もの成分を含んでいるという。その中には、気分をよくする物質が含まれている。

コルチゾール(愛情を高める効果があることが知られている)、エストロン(気分を高める)、プロラクチン(自然の抗鬱薬)、オキシトシン(これも気分を高める)、甲状腺刺激ホルモン放出ホルモン(もうひとつの抗鬱薬)、メラトニン(催眠物質)、そしてセロトニン(おそらくもっともよく知られた抗鬱作用のある神経伝達物質

などなど。そこで、普段コンドームを使って性行為をしている女性とそうでない女性をアンケート調査したところ、後者の有意に鬱の症状が少ない、などという結果が得られたともいう。女性器付近にはいろいろな血管網にとりかこまれていて、薬を運ぶのに理想的な経路、らしい。

こうなるといろいろ想像もできるが、著者は最後に釘を刺す。

最後に、女性の方々にひとこと。このエッセイを都合よく読んだ男性が「ぼくは医者じゃないけど、睾丸で薬を処方できるんだ」と言うかもしれないからだ。このエッセイにはいくつもの但し書きがついていることをお忘れなく。

しかしまあ、「睾丸で薬を処方できる」と言う男に魅力を感じる女もいないような気はするのだけど。

 

あそこの毛 ― ヒトの陰毛とゴリラの体毛

本題とはちょっとそれるエピソードが印象に残った。16ヵ月齢の赤ん坊に大人のような陰毛が生え、ペニスが大きくなり、頻繁に勃起するというケースがあった。調べてみると、テストステロンが異常なほど高い。その原因はというと、父親が鬱状態の対策として、テストステロンのジェルを毎日二回ほど肩や背中や胸に塗布しており、その状態で赤ちゃんを抱っこしたり、一緒に寝ていたりしたから、というのである。父親が塗布をやめたら、赤ちゃんも年相応に戻ったという。……そんなことって、あるんか。

 

なぜにきびができるのか ― 裸のサルとにきび

……1984年にさかのぼるが、臨床医のマリオン・ザルツバーガーとサディ・ザイエンスは「さまざまな側面から考察した結果たどり着いた見解では、単一の病気で、にきびほど心的外傷、親子間の関係不全、不安感や劣等感、そして大きな精神的苦痛を引き起こすものはない」と結論している。

 これは60年以上まえのことであり、もちろんそれ以後、にきび治療産業は飛躍的に成長してきている(心理皮膚科学という精神医学の下位分野もあるほどだ)。

はてな匿名ダイアリーを読んでいる人には、ある増田のことが思い浮かぶかもしれない。人間がにきびをある人に対してさまざまな悪印象を抱くことも実験でわかっている。これは進化心理学的にいえば、より健康である可能性が高い異性を選択してきた結果だろう。多くの人がヘビを恐怖するのは、ヘビを恐怖する性質を持った人間のほうが、そうでない人間より生存してきた確率が高い、というのに似た話。そして、そのような深いところに根ざした人間の心理からくる意識的、無意識的な悪感情にさらされ続ければ、たしかに大きな心的外傷を追うことにもなるだろう。外見の問題は、にきびに限った話ではないが、たかがにきびとは言えないのが現実だろう。思春期のおれにもにきびがポツン、ポツンとできたが、幸いにも市販のクレアラシルとすごく相性がよく、悩まされることがほとんどなかったのは偶然の幸いである。

 

脳損傷があなたを極端なほど好色にする

クリューバー=ビュシー症候群という病気があって、性的衝動の制御能力が完全に崩壊するという。これは癲癇患者の側頭葉切除手術などで引き起こされるというが、ともかく物理的損傷が「自由意思」を完全に抑え込んでしまうという。

して、著者こう問いかける。

 私たちの大部分は日常的な認知能力が損なわれる脳損傷を負った患者の人たちに大いに同情する。たとえば、彼らがだれかの名前を覚えようとしている時、私たちは覚え方を教えてあげたり、ほめたり励ましてあげたりして、彼らの知的な障害を軽減してあげようとする。しかし他方で、性欲やほかの多淫な動機を制御し抑制するように進化した灰白質の一部が破壊的な損傷を負った場合は、このように寛大でいられるだろうか?

これはかなり人間の自由意思や道徳といったもののコアに突き刺さる問いかけのように思える。脳の中の問題から、社会、法律の問題まで。同じような問いは「ヒトラーで考える自由意思」というエッセイでも語られている。もしもアドルフ・ヒトラーが5歳のころにタイムスリップできたら、その子を殺してしまうべきだろうか、あるいは後の世界の記録を親や本人に見せればいいのか。ヒトラーは持って生まれたものでそうなったのか、そうではないのか……。あるいは、人間の決定論的理解が反社会的行動を助長してしまうという実験結果について。

 

女性の射出

いわゆる「潮吹き」について。

化学分析から少なくとも次のようなこともわかっている。すなわち、尿素がふくまれることがあるにしても、女性の射出液は尿ではない。

はあ、そうだったのですか。

 

自殺は適応的か?

 自殺の科学的理解は、傷つきやすい10代のゲイにとってだけでなく、自殺を好ましくする状況にいる人々にとっても有益である。「自殺を好ましくする」と表現したのは、ヒトの自殺が適応的行動方略だということ――進化の方程式のなかに社会的、生態学的、発達的、生物学的変数を入れ込んでゆくと、そうである可能性がますます濃厚になる――を示す重要な研究があるからである。それらの研究はみな、もとをたどると、ほとんど忘れられていた1980年代初めのデニス・デカタンザロの考えにさかのぼる。ひとことで言うとデカタンザロは、ヒトの脳が、ある特定の条件に直面した時に自分の命を絶たせるような自然淘汰によってデザインされている――なぜならそれが自殺をした祖先の全体的な遺伝的利益にとって最善だったから――と考えた。

まだ子供を作っていない人が自殺してしまえば、その人の遺伝子は淘汰されたということになり、後には残らない。とすると、自殺をしなかった人間の遺伝子を受け継いだ人間ばかりが残るはずだ。だが、そうではない。なぜか。そこに出てくるのが「全体的な遺伝的利益」というものだ。

 進化的見方からも、自殺が適応的というのは奇妙に聞こえる。というのは、生存と繁殖という進化の第一原則と相容れないように見えるからである。しかし、進化理論の専門家ウィリアム・ハミルトンの有名な包括適応度の原理が明確に示すように、問題に成るのはその個人の遺伝子が次世代以降にどれだけ伝わるかである。したがって、もし自分の生存のせいで血縁者の遺伝子が次の世代に残らなくなってしまうのなら、遺伝子の正味の利得のために自分の命を犠牲にすることは祖先の時代には適応的だったのかもしれない。

進化論者が飲み会で言ったというジョークに、「自分は○人のいとこのためなら死ねる」というのがあった(何人だか忘れた。勝手に計算してください)。

……追記。出典があった。

J・B・S・ホールデン - Wikipedia

彼は溺れている兄妹のために命を投げ出すか?と問われて次のように語ったと言われる。「2人の兄妹、4人の甥、8人のいとこのためなら喜んで命を差し出すだろう」。これはホールデンが後年の遺伝子中心視点主義や血縁選択説を先取りするアイディアを持っていた証として語り継がれている。

……すなわち、いとこが持つ血量(競馬的表現)が自分と等しければ、その一族の遺伝子は次の世代に残るということだ。そういった口減らしができた一族が生き残ったり、逆にそうでない一族が、その成員のみなが自殺をしなかったせいで生き残れなかった場合もあったということだろう。自殺傾向の遺伝というものが自然淘汰で消え去らなかったという理由だ。

このような包括適応度は、直接の子供を残さない同性愛者についても言えるらしい。なぜ同性愛的傾向を持つ遺伝子が滅ばなかったのかといえば、自分と遺伝子を共有する生物学的血縁者への投資によって、親以上に遺伝的に成功する場合もある、という話だ。

自殺と同性愛を同列に語れるものでもないだろうが、一見して進化論的に「なぜ?」と思えることについても、こうすると説明がつく。このあたりが進化心理学とかいうものの面白いところだと思う。むろん、おれにはこれが科学的な説明か、ただのこじつけか見分けることはできないのだけれど。

 

以上、この本は非常に面白いので、ともかく手にとって本屋のレジなり、図書館の貸出カウンターなりに持っていくべきである。とはいえ、このエントリーがGoogle広告あたりから警告を受けたら、速攻で消す覚悟であることを加えて述べておく。

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d.hatena.ne.jp

ちなみに訳者はこの本も訳してる鈴木光太郎先生だった。

d.hatena.ne.jp

d.hatena.ne.jp

……おれが進化論、進化心理学について興味をもったのは、おれのような精神疾患の人間が生まれる要素のある遺伝子が、なぜ淘汰されなかったのか、というところがある。自らがゲイであるジェシー・べリングも似たようなところから、そして下品とされるものを好む性格から、それを真面目に取り扱う方面の科学に進んだのだろう。たぶん。

 

チャールズ・ブコウスキー『指がちょっと血を流し始めるまでパーカッション楽器のように酔っぱらったピアノを弾け』を読む

酒を飲み

競馬をし

詩に賭ける以上に

することもなし

 

おれはチャールズ・ブコウスキーの信奉者であり、とうぜんこの詩集を読んだことはある。が、あらためて読んだ。読んでみたところで、「やっぱり原語で読むべきだろうな、でもおれ、英語わからねえし」と思った。

古いグレタ・ガルボの映画を夢見ながら。

おれは新聞紙の販売機に半ドル入れて

最新のセックス新聞をとった。

それからサンドイッチ屋に入っていって

サブマリンと

コーヒーのラージ・サイズを注文した

客たちはどうやったら減量できるかという話をしながら

すわっていた。

おれはサイドオーダーに

フレンチ・フライを注文した。

セックス新聞の広告の女の子たちは

セックス新聞の広告の女の子たちのように思えた。

女の子たちは孤独ではないのよとおれに語っていた

解決してあげるわとおれに語っていた

……「サンドイッチ」部分

セックス新聞(なんだそれは?)の女の子たちは、セックス新聞の女の子たちのように思える、そこがいい。そこがブコウスキーの直截であり、達観でもある。おれは、実は博識なブコウスキーの、しかしそれでも、その生活に根ざしたところにとどまるところが好きでならない。そして、時代も場所も違えども、同じ下からの目線、地べたの目線を共有していると、勝手にそう思っているのだ。

ボクシングの試合と競馬場は

寺院の学習である。

 

同じ馬と同じ男が

同じ理由で

いつも勝ったり負けたりするとは限らない。

……「馬と拳」部分

そして、馬である。おれはボクシングというものを間近に見たことはないが、競馬と同じなにかがあのであろう。ブコウスキーが競馬と拳について伝えたかったこと、それを享受したいと思えてならない。社会の下のほうに位置して、そこから抜け出られない人間の悲哀と、歓喜のまやかしを忘れないようにしたいのだ。

ハイ/孤独/酩酊/悲しみの笑い

アイ・ラブ・ユー。

 

エミリー・ディキンスンをちょっとだけ読む

シオランの『カイエ』を読んでいると、何回か繰り返し出てくる事柄がある。モンゴル、日本、そして詩人エミリー・ディキンスンである。エミリー・ディキンスンを賛美するというか、心酔しているというか、崇めているというか、えらい調子なのである。そこまでシオラン先生が入れ込んでいるなら、どんなものか読みたくなるじゃないの。

ということで、二冊ほど読んでみた。

 

エミリ・ディキンスンを読む

エミリ・ディキンスンを読む

 

こちらは、詩人の生涯を追いながら、何篇かの訳詩、そして原文が載っている。

 

わたしは名前がない。あなたはだれ? エミリー・ディキンスン詩集

わたしは名前がない。あなたはだれ? エミリー・ディキンスン詩集

 

こちらは、テーマごとに訳詩だけ載っている。

で、どうだったかというと、どうなのだろう。詩は言葉、意味そのものではない。訳したからとってまったく伝わらないわけでもないけれど、やはり詩のコアである言葉であることが失われてしまうように思える。ならば原詩を読めばいいというのかもしれないが、おれには外国語がわからない! ……というわけで、にっちもさっちもいかねえなあ、というところだ。たとえば、金子光晴ランボーを訳したら、金子光晴ランボーかわからない詩というものが出てきて、たいそう素敵になったりするのだけれど、それはまた別のパターンだろうか。

して、エミリー・ディキンスンである。英語で書いた詩人の中で最高の一人、くらいの言われかたをしている。おれは、名前も知らなかった。19世紀アメリカ、片田舎で引きこもって暮らした。そして詩を書いた。書いた詩は没後に高く評価された。

エミリー・ディキンソン - Wikipedia

しかし、エミリーなのか、エミリなのか、ディキンソンなのかディキンスンなのかはっきりしてほしい。

これが衰えることなら

すぐに 衰えさせてください

これが死ぬことなら

葬ってください 赤いかたびらを着せて

これが眠ることなら

このような夕べに

目をつぶることは 誇らしい

おやすみなさい みなさん

くじゃくが いま 死んでいきます

最後の「くじゃくが いま 死んでいきます」がいい。

傷を負った鹿がいちばん高く跳ぶ

そう猟師が言っていた

死の法悦だから ― それから

草むらは 静まりかえる

最初の「傷を負った鹿がいちばん高く跳ぶ」がいい。べつになにかの格言になるというわけでもないのだけれど。

この人こそ 詩人でした

詩人は 普通の事柄から

はっとする意味を抽出します

戸口で萎れた

 

とくに珍種でもない花から

花香水を作ります

わたしたちは ああ なぜできなかったの?

彼がして見せる前にと いぶかるのです

 

さまざまな絵を見つけだして示す

この人こそ 詩人です

私たちは 身に引き比べて

つねの自分の貧しさに気づくのです

 

分け前には まるで無頓着で

盗まれても 傷つきもせず

詩人は みずからが 財産です

時の流れの 外にいます

これはもう、自らのことを書いたかのように思える。詩人その他芸術家いうものは、こうではなくてはならない。べつに分け前に頓着してもいい。だれも気づいていない「そこか!」というところを指し示してほしい。おれたちの、思いもしなかった形にして見せてほしい。

もし 張り裂ける心を ひとつ防いだら

わたしが生きたことは むだではないの

いのちの苦しみを もしひとつやわらげたら

痛みをひとつしずめたら

 

瀕死のコマドリを一羽

もし もう一度巣に戻せたら

わたしが生きたことは むだではないの

そして、たとえばこの詩の原文はこうなる。

If I can stop one heart from breaking
I shall not live in vain
If I can ease one Life the Aching
Or cool one Pain

Or help one fainting Robin
Unto his Nest again,
I shall not live in Vain.

ふむん。どこらへんがどう韻を踏んでいるのだとか、踏んでいそうだとか、まあわからんけれど、そうなのだ。

By homely gift and hindered Words

The human heart is told

Of Nothing - 

"Nothing" is the force

That renovates the World -

それで、この詩なども、どう解釈するかで意味も違ってくるという。「gift」を贈り物とするか「才能」とするか。いずれにせよ、「Nothing」を「無」とすると、「無」に力ありとするのはなかなかに東洋的でもあって、こういう感覚をシオランが好んだのかもしれない、などと思う。が、やはりそこも、おれの生まれ育ちのバックボーンに西洋的な神がないから語り得ぬのである。以上。

 

 

黄金頭さんが2018年読んだ本から5冊おすすめするの回

ブロガーいうもんは(……以下略)。

というわけで、5冊ほどよかった本をおすすめしたい。もちろんのことながら、おれは新刊などあまり読まない。読めない。死んだ人間の本の方が好きである。

 

シオラン

5冊、とかいっておいて、いきなり著者名というのはおかしな話だが、今年おれの最大の出会い……アニメ、映画、漫画、音楽全部ひっくるめて……はシオランであった。今年の後半はシオランばかり読んでいたような気がする。なので、「この本!」というのは選べない。というわけで、とくに面白かったのを挙げる。

goldhead.hatenablog.com

半分しか読んでないのに? いや、それでいいのだ。このノートからそのまま著作に記された内容もあれば、個人的な日々の生活もある。これは面白いし、読みやすい。あえて半分残しているんだ。

 

カイエ 1957‐1972

カイエ 1957‐1972

 

 

goldhead.hatenablog.com

 

生誕の災厄

生誕の災厄

 

そして、おれがおれの反出生主義というものを深く認識させてくれたのがこれである。

goldhead.hatenablog.com

これもどちらかというと『カイエ』に近いのかもしれないが、シオランの為人というものが垣間見えて楽しい。ファンなら買い、だ。

 

シオラン対談集 (叢書・ウニベルシタス)

シオラン対談集 (叢書・ウニベルシタス)

 

 

『不穏の書 断章』フェルナンド・ペソア

goldhead.hatenablog.com

もしもシオランを読まなければ、おれの今年の最大の出会いはフェルナンド・ペソアであったろう。こちらも、アフォリズムほど短くはないが、それでも断章の人である。そして、複数人格を作り上げてすばらしい断片を作り続けた。おれはポルトガルをほとんど知らないが、ペソアの記述に従ってGoogle Mapなどを見たりもしたものである。

 

『集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』

goldhead.hatenablog.com

今年も何冊か仏教の本を読んだが、とりあえずこの一冊を。これがブッダの教えのそのままだ、というテーラワーダ仏教の本も読んだが、なんとなくしっくりこなかった。それよりも、中国や日本で変容していった流れ、その多様性のほうが面白い。

 

『THIS IS JAPAN 英国保育士が見た日本』ブレイディみかこ

goldhead.hatenablog.com

政治関係の本はあまり読まなかったが、これは印象に残っている。この人は地べたからものを見ることができる人だと思うし、おれはその見方に乗れるな、と思った。相も変わらず安倍政権は続いているし、野党にも大きな動きはない。市民運動が盛り上がっているという感じもないし、おれの景気がよくなっているという報告もない。さあ、どうなるんでしょうかね。

 

 

『一瞬の夏』沢木耕太郎

goldhead.hatenablog.com

これはもう最高におもしろかった。おれの行動範囲の地名がバンバン出てくるのもよかった。それにしても、なんといってもカシアス内藤という人物の強さと弱さ、それに惹かれた。ちょっと沢木耕太郎の本については一休みになっているが、また読みたいと思った(今)。

 

……あとは、ここには挙げられなかったが、深町秋生の何作かはいつものことながら楽しめた。仏教本については、鈴木大拙止まりであったところから、現代的なものを何冊か読めたかな、と思う。そのあたりは適当に検索して探してください。ともかく今年はシオランだった。以上。