シオランの『カイエ』を半分読んだ

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カイエ、というのはフランス語で雑記帳、メモ帳、ノート、そんな意味である。シオランの『カイエ』。未発表の雑文がまとめられたものだろうと思って、借りた。書庫から出してもらった。出てきたのは分厚い辞書のようなものだった。「訳者あとがき」までで1012ページあった。おれはたじろいだ。

が、読み進めるのはそれほど苦ではない。なにせ、アフォリズムの名手による、覚え書き、メモ、日記なのである。現代風にいえばツイート、とでも言うべきか。すらすらと読む。おれの知らない固有名詞が出てきたら、飛ばす。そんなふうにして読んだ。

……読んだが、半分くらいで止まった。具体的には478ページで止まった。とりあえず、ここまで読んで気になった箇所を書き留めておきたい。ちなみに、シオランはここにまとめられたノートについて「出版するなよ、絶対に出版するなよ、破棄しろよ」みたいなことを言い残していたらしいが、それはダチョウ倶楽部のそれと同じではないかと、おれは思っている。

 私の生きる能力の欠如も、稼ぐ能力の欠如もともに見上げたものだ。私には金銭は身につかないのだ。四七歳になったというのに、一度も収入というものを得たことがない!

 金銭の形では何も考えられないのだ。

この『カイエ』、1957年あたりから書き始められたものだ。シオラン、すでに47歳。それでも、まだ人生に迷っているあたりがいい。収入を得たことがないというのも大げさだろうが、そういう心持ちでいるおっさんである、というところがいいじゃないか。

 成功以外に、人間を完全に駄目にしてしまうものはない。〈名声〉は、人間に降りかかる最悪の呪詛である。

これを負け犬の遠吠えと見るかどうか。

 なぜアダムとイヴは、生命の樹にすぐに手を触れようとはしなかったのか。不死の誘惑は、知の、なかんずく権力の誘惑より強くはないからだ。

このあたり、キリスト教者ではないシオランが好んで取り上げる、聖書における人類の原初。人類への皮肉。

 私はもともと軽佻浮薄な人間だった。ところが、さまざまの苦しみが降りかかり、そのため深刻にならざるをえなかったが、私には深刻なものに向いた才能はまるでない。

おれも、おれも、と言いたいところだが、おれを「深刻な人間」とみなす人間がいるのかどうか知らぬ。むしろ、おれほど軽佻浮薄な人間をインターネットで物言う人間から探し出すのはむずかしいのではないか。

 自分の五人の娘を弁証家に育てあげた、あるギリシアの哲学者(ディオドロスだったか)は、娘たちに男の名前をつけ、使用人たちを、なぜなら、とか、しかしなどといった接続詞で呼んでいた。

 言葉にもとづく至上権、同時に言葉のもつ専制の無視。

使用人を接続詞で呼ぶっておもしれえな。「しかし、酒を持ってこい」。「なぜなら、散歩に出かけるから留守番していろ」。

 かなり厳格な食餌療法をし、規則的な生活をはじめてから、いいことはこれといって何もない。不毛の五年。理性の五年。私の精神は、無秩序と何かの中毒があってはじめて機能するのだ。コーヒーをやめたのは高くついた。

で、シオラン、なんか健康に気を使っている。これは面白いことだ。コーヒーのほか、タバコをやめた話もしょっちゅうしている。おまけに、けっこう長めの散歩、というかハイキング、トレッキングなんかもしている。『生誕の厄災』の著者にして、自殺という概念を常にポケットに入れながら、人類は破滅するべきだという反出生主義者の人間が、規則的な生活をしているのだ。まったく悪くない。むしろ、そうでなくては、と思わせるくらいだ。

 すでに早く、二十歳になる前、私に理解できたと誇れる唯一のことは、子供をつくってはならないということだった。結婚、家庭、あらゆる社会制度、こういうものに対する私の嫌悪は、ここに由来する。子孫に自分の欠陥を伝え、かくて子孫に自分と同じ試練を経験させ、おそらくは自分のそれよりも過酷な苦難を経験させる――これは罪だ。私は、私のさまざまな病を受け継いだ者を生むことに、どうしても同意するわけにはいかなかった。両親とは、いずれも無責任な者か人殺しだ。畜生だけが子供つくりにいそしむべきだろう。同情心があれば、私たちは〈人の親〉にはなれまい。〈人の親〉、私の知るもっともむごい言葉。

 反出生主義の見事な一節。おれはシオランを知ってこの考え方に傾いたわけではなく、おれのなかにずっとあって、シオランに出会った。このことは、おれの過去の日記(おれの「カイエ」!)からも明確なことだろう。この点で、おれの両親は誤りをおかした。おれと弟はろくな人間になることもできず、苦難の中にあって死ぬことを待っている。ただ、子を作る可能性がないという点で、両親よりはマシな人生を歩んでいるとも言える。

 孤独な人間を攻撃する。政治において、そしてすべてのことにおいて、これほど卑劣なことはない。

モラリスト、というとべつに道徳家を意味するわけではないが、なにか道徳的な響きがある。しかし、ほかの著作には攻撃する側もされる側も、しょせんは同じ粘土で捏ね上げられてることを忘れるなよ、みたいなことも言っていたっけな。

 元寇のころの日本の兵士の歌について。「世界には一本の棒も立てられるわずかな土地もない。嬉しきかな。すべては、おのれも、全宇宙も無だ。蒙古の勇猛果敢な兵士どもの振りかざす大だんびらを讃えよ。なぜなら、それは春のそよ風を切り裂く稲妻のようなものだから。」(『仏教の現代性』中のトゥッチによる引用)

シオランさん、トゥッチさん、それは「日本の兵士の歌」ではないぜ。無学祖元の言葉だ。

禅語「電光影裏斬春風」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト

乾坤、地として孤筇を卓する無し
喜び得たり、人空、法も亦また空
珍重す大元三尺の剣
電光影裏に春風を斬る

無学祖元は日本に渡来し、「日本の兵士」、すなわち鎌倉武士に大きな影響を与えたし、元寇にも無関係ではないけれど、兵士そのものではないのだな。でもまあ、禅にかぶれた武士が「珍重す……」って諳んじててもおかしくはないか。

 私は怒りでもって絶望と闘い、絶望でもって怒りと闘っている。ホメオパシーか?

ホメオパシーなの?

 先日、抜粋と解説とからなるスペイン内戦の映画『マドリードに死す』を観る。……(以下略)

シオランって映画とか観るの? みたいに思っていたら、観ていたようだ。そんだけ。いや、ちょっと為人を知りたいとかあるじゃない。ファンだから。

 病気も病人も好きではないが、それでも私は、健康な人の言動を真に受けることはできない。

こう言ってのけるあたりが、いいよな。おれも病弱な子供だった。大人になったら精神疾患持ちになった。そして、健康な人間の言葉は胡散臭いと感じるようになった。病気を克服して、という人間についても同様だ。

 六年前の〈カイエ〉にざっと目を通したところだ。なんという混乱か! なんというとげとげしさ、麻痺ぶりか! 憂鬱の深刻さにわれながら衝撃を受ける。

で、自分でこんなこと書いているところも面白い。ところでおれは、同人誌(といっていいのかわからないが)を出してもらえる(というのも変な表現だが)ことになって、それこそ五、六年前の文章を読んだのだが、「昔のおれは今のおれより文章がうまいなあ」と思わずにはいられない。今、これを読んでいる暇があったら、「はてなダイアリー」のおれの文章を読んだほうがいい。あるいは、今度出るらしい同人誌(中綴じの薄い本ですが)でも買ってください。宣伝。

 ケネディの死は私には大きな悲しみだった。

たまに同時代のニュースなど出てくる。本当に、たまに。そうか、どこか浮世離れしたところがあるが、その時代の人だったのだな、とか。あと、たまに日本の話と、なぜかモンゴルの話を書く。仏教から日本、というのはわかるが、モンゴルはよくわからない。

 自分の夢を写真に撮ることができれば!

シオランが実生活で写真を撮っていたのかどうかはしらない。ただ、実生活でいくらか写真を趣味としているおれは、あまりに美しい風景を前にして、カメラの電源が入らない、シャッターがおりない……という夢をよく見る。呪わしい夢だ。

 カリギュラは、彼の愛馬が円形競技場で演技を行う前の晩は、厩舎の周辺を静寂に保つよう衛兵に命じている。カリギュラで何が私の気に入ってるかといって、この命令にまさるものはない。

シオランローマ皇帝、というか暴君好きはところどころ出てくるが、このあたりはおもしろい。

 ドイツ的被虐趣味は耐えがたい。昨夜、ハンス・M・エンツェンスベルガーの講演を聞く。彼の言葉を信じるなら、今度の大戦で犯罪を犯したのはドイツ人だけだということだ。

 この民族は傲慢か卑屈かでしかありえず、挑発者か臆病者でしかありえない。

エンツェンスベルガーといえば『何よりだめなドイツ』の作者であって、「自虐史観者!」ということも言えよう(シオランはドイツ人じゃないけど)。でも、おれはエンツェンスベルガーの『政治と犯罪』も『がんこなハマーシュタイン』も好きなんだぜ。

 アレクサンドル・ブロークは、一九一二年四月十五日付けの『日記』に次のように書きとめている。「昨日、タイタニック号の難破を知って狂喜。してみると、まだ大西洋は存在しているのだ。」

ブロークはロシアの詩人。詩人と言うと、この『カイエ』ではエミリー・ディキンスンへの熱狂が多く綴られている。いずれおれも読んでみよう。

 遺伝、――この言葉を聞いただけで背筋に戦慄の走るのを覚える。宿命という古代の言葉の方がずっと耐えやすく、またずっと穏やかだった。

これはもう、まったくもって今現在に通用する言葉だろう。遺伝、あるいはその解析、そして操作。それに対して人間はどうあるべきか。もう、用意しておいたほうがいい、という段階でもないだろう。

 性欲を抑えるのは最難事のひとつだ。欲望を克服する力をもつには、まさに神を信じなければならない。

今まで何冊か、というか、それなりにシオランの本を読んできたが、シオランが性について語ることは稀だ。反出生主義の立場から、出生について語りはすれ、性そのものについては沈黙している印象がある。これは珍しい一文。

 仕事をしたいと思いながら、その能力のない不幸。

これはシオラン自分自身についての言葉かどうか。ただ、これも主語やなにかを大きくしてしまえば、今後の大勢の人間というものが直面していく問題ではあろう。ほんの少数の有能者が仕事に就き、大勢の無能者はやることがなくなる。

 私は仏教徒ではない。だが、仏教のさまざまの固定観念は私のものである。

シオランと仏教、というとひとつのテーマになるだろう。本人はこう言っている。おれもこのくらいは言いたいものだが。

 一二月二六日、今日は、オアーズ川沿いに五時間、休みなしに歩く。

 精神の苦しみの治療法としては、肉体の疲労、運動、ほぼこれだけだ。

このあたりの健康的なシオラン。自転車でフランス一周しただけの下地はある。タバコもコーヒーもやめ、精神の健康のために歩く。それでもって、世の人を困惑させる絶望を吐き出してやめない。なんともいいじゃないか。

 口頭でなら面白い展開はいくらでもできるが、しかし書きはじめると、とたんに私は身動きがとれなくなる。私はほとんど書かないから、自分の書くものをどうしても信じてしまうからだ。つまり、私にとっては言葉には重みが、実在性があり、その言葉に自分は責任があると思うのだ。言葉の一つひとつが、私にはかけがえのないものであるという特権をもっている点は別にしても。

言葉に対しては常に真摯だ。シオランが母国語を捨て、フランス語を選択した、ということもあろう。ちなみに、おれはというとお喋りについてはぜんぜん軽薄でけっこう、という具合であって、非常にいい加減で、なおかつ人を笑わせようとする悪癖がある。たまに、女などにブログに先に書いてしまったことなどを話したりもするが、決まった筋書き、盛り上がるところ、そしてオチと、なかなかに頭を使う。うまくいったり、いかなかったりする。コメディアンは偉大だ。

 本が興味深いものになるのは、そこに見られる苦しみの量によってだ。私たちの関心をそそるのは、作者の思想ではなく苦しみであり、彼の叫び声、沈黙、袋小路、百面相であり、解決不可能なものをかかえた文章である。一般的に、苦しみから生まれたものでないものはすべて偽ものだ。

これについて「そんなはずないはない!」と即座に思えてしまう人は、Mで待ってるやつと同じくらいに、もうグッバイだ。「そうかもしれない」と思える人とは話せるし、「そうだろう」と言う人とは仲良くなれるかもしれない。

 モーツァルトと日本は、天地創造のもっともみごとな成功例だ。

いや、日本びいきもそこまで言われると。というか、シオランは日本に来たことはないだろう。ただ、出口裕弘とはちょくちょく会っていたのだから、出口さんの印象がよかったということもあるかもしれない。違うかもしれない。

 挫折した者、落伍者、不幸な人々(特に女性)、若者、要するに不完全なものと未完成のもの――私の本が、いくつかの例外を除き、信用されているのは、以上のような人々のあいだに限られる。

見事に自分の声の届け先を知っている。そうだ、おれは落伍者、そしてシオランを信用している。だから、ここで『カイエ』を読み切るのはやめよう。しばらく取っておこう。そうすることにする。いずれ、残りを。

 

カイエ 1957‐1972

カイエ 1957‐1972

 

 

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竹内整一『ありてなければ「無常」の日本精神史』を読む

 

ありてなければ 「無常」の日本精神史 (角川ソフィア文庫)
 

なんとなく手にとった一冊。

この本で言う「無常」は、釈尊の仏教のコアな意味での「無常」ではなく、「祇園精舎の鐘の声~」的な、日本人の「無常観」に近い。というか、タイトルに「日本精神史」って書いてあるし。

……「はかない」とは、「はか」がないこと、つまり「はかがいく」「はかどる」の「はか」がないことです。「はかがいく」ように、努めても努めてもその結果をたしかに手に入れられないことから、あっけない、むなしい、という意味をもつようになった言葉です。

して、「はかない」日本人。この「はか」の由来については松岡正剛だかだれだかの本でも読んだことがある。「はか」とは「はかる」に通じ、それは西洋近代の科学技術の基本思想に通じ、プロスペクティブに通じる、という。その「はか」第一主義のbusiness社会にある現代日本、心を亡ぼす忙し社会の日本において、「はかない」指向を見直してみませんか、というような感じだろうか。

して、ありてなければ、夢の話。夢の中へ、あるいは夢の外へ、そうでもなければ夢うつつの境界へ、ということにもなる。

蟪蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや

夏蝉は春も秋も知らないのだから、夏を知ってるといえようか、という。これは親鸞の『教行信証』に出てくる……もとは曇鸞の『浄土論註』だからひ孫引きくらいになるのだろうか、なるほどと思わせてくれる話ではある。われわれはこの世にあってこの世しか知らぬから、この世がなんであるか知りもしない。それが夢へのいざないでもある。これは関係性、因縁のなかにしかあり得ないわれわれという、仏教のコアにも通じる話かもしれない(違うかもしれない)。

話は変わって酒。『万葉集』の大伴旅人

賢しみと物言ふよりは酒飲みて酔ひ泣きするし優りたるらし

古語読解はおれのわからぬ範疇なのでなんとも言えぬが、酒飲んで泣いてるほうが賢いふりして物言うよりはマシだぜ、というのはわかる。人間なんて、かなり昔からそんなものなのだろう。

『一言芳談』からはこんなのが引用されていた。

あひかまへて、今生は一夜のやどり、夢幻の世、とてもかくてもありなむと、真実に思ふべきなり。

『一言芳談』については吉本隆明の本を読んだ。

d.hatena.ne.jp

吉本は「短章であること」を評価している。おれもシオランを読んでアフォリズムはよいと思ったので、よいのである。ただひたすらに「疾く死ばや」。これは「夢の外へ」の思想、しかし、この世を夢と思うかどうかで「夢の内へ」も入ってくるかもしれない。そのアンビバレントで微妙なところがこの国に生きた人々の無常観なのやもしれぬ。

おれの知らぬ能、謡曲の世界。

これはなつかし、君ここに、須磨の浦曲の、松の行平、立ち帰り来ば、われも木陰に、いざ立ち寄りて、磯馴松の、なつかしや。

「黒塚」。「なつかしい」という言葉は、もとは現在形の「なつく(懐く)」。言われてみればハッとする。人はみな……かどうかわからぬが、語源の話がわりと好きなような気がする。おれは好きだ。

そういうわけで、語源もう一丁。

「せめて」とは、「《セメ(攻・迫)テの意。物事に迫め寄って、無理にもと心をつくすが、及ばない場合には、少なくともこれだけはと希望をこめる意」です(『岩波古語辞典』)。

そうか、「せめて」とは、もっと切実な、力のこもった言葉だったのだな、とか。

さて、話は変わって『葉隠

 何某、喧嘩打返をせぬゆへに恥に成りたり。打返の仕様は踏懸て切殺さるる事也。……恥をかかぬ仕様は別也。死まで也。其場に不叶ば打返し也。是には知恵も入ぬ也。曲者というふは勝負を不考、無二無三に死狂ひするばかり也。是にて夢覚むる也。

喧嘩を売られたら、打返して斬り殺されればそれでよい。死狂ひの思想。

ともかく、無明逆流れなのである。本書の主題としては「夢覚むる」にあるのだろうが、ここんところが「できなかった告白と、逃げた喧嘩は一生後悔する」(ネットのどこかで見た言葉)という思想を持つおれには、『葉隠』のシグルイが気になったわけである。

さて、時は近代。福沢諭吉先生曰く、以下のごとし。

……宇宙無辺の考を以て独り自ら観ずれば、日月も小なり地球も微なり。況して人間の如き、無知、無力見る影もなき蛆虫同様の小動物にして、石火電光の瞬間、偶然この世に呼吸眠食し、喜怒哀楽の一夢中、忽ち消えて痕なきのみ。

『福翁百話』より。こんなシオランもびっくり(びっくりしないかもしれない)の、人間を蛆虫とする虚無派がお札の顔になっている日本という国よ。もっとも、福沢先生は実学を問いたのだが……。

平生は塾務を大切にして一生懸命に勉強もすれば心配もすれども、本当の私の心事の真面目を申せば、この勉強心配は浮世の戯れ、仮の相ですから、勉めながらも誠に安気です。

 と、『福翁自伝』にあるという。「本来無一物の安心」というものという。これは、夢と現のあわひへ、ということになるらしい。

……と、なんか孫引きばかりになって、この本はどうなのよ? ということになりそうだが、まあおれが引用したような部分から、どんな感じなのか受け取ってもらえればと思う。べつに受け取らなくてもいい。その上で、興味を持ったならば『ありてなければ』に当たってほしい。当たらなくてもいい。おれはただ、なんともなしに、この日本とか呼ばれる地域に暮らす人間のメンタリティいうのは、今も昔も変わらんのかなと思ったりしたくらいである。以上。

 

 

反出生主義者よ、縮こまることなかれ べネター『生まれてこないほうが良かった』を読む

 

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生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

 

最近の反出生主義の本というと、これらしい。おれは反出生主義者として目覚めたばかりであり、その根拠というか、同じことを考えているやつ、同じことを考えているやつの考えを知りたかった。だから、この本を読んだ。

ページをめくりかえすことなく、印象を述べる。となると、「なに回りくどいこと言ってんだ」、「もっとズバッと言え」、「シオランだったら3ページで済むぞ!」というあたりである。

どうも著者は、「自分はえらく間違ったことを述べているのではないか?」という意識が強く、あれやこれやと理屈をつけて反出生主義を訴えるのである。もとより反出生主義者であるおれにとっては、それがまどろっこしい。そんなのわかりきったことだぜ、と言いたくなる。

が、これが非反出生主義者の、世間的に見れば常識人にとってみれば重要なことなのかもしれない。そっから言わなければ駄目なのか? 駄目なんだ。そういうところだ。そういう本が必要なのかもしれない。いきなり「シオラン読め」ではいけないのかもしれない。

 私たちの誰もが、生まれさせれてしまったことで、害悪を被っています。その害悪は無視できるものではなく、たとえどんなに質の高い人生であっても、人生は非常に悪いものなのです。大抵の人がそう認識しているよりも遥かに悪いのです。とはいえ、私たち自身の誕生を防ぐにはもう遅すぎます。しかし、将来生まれてくる可能性のある人々の誕生を防ぐことはできます。というわけで、新しく人々を生み出すことは道徳的に問題があるのです。この本の中で、私はそのような主張をします。

「まえがき」冒頭

な、まわりくどいだろ?

でも、なんかわからんが、本書の中盤あたりから筆者の過熱がある。

「どれくら人間は存在するべきなのか?」という問いへの私の回答は「ゼロ」だ。言い換えれば、何人であれ人間はそもそも存在するべきではないと私は思うのである。これまでに人間が存在してしまっているということを踏まえても、これ以上存在するべきだと私には思えない。

この調子である。この考え方はおれのおれのなかから出てきた言葉にも適合する。おれは「今いるものを殺すほどのことではないが、新しく作るべきではない」と考えている。シオランでも、ショーペンハウアーでもいいが、だれかの思想を受けて考えたことではない。おれの反出生主義はおれのなかから澎湃と湧き上がってきたものである。

 存在してしまうことは常に害悪であるという見解はほとんどの人の直観に反する。人々はシンプルにこの見解は正しいはずがないと考える。

 このように著者は言う。そのためにいろいろなパターンを提示し、そして反駁をくわえていってるのが本書だ。だが、「ほとんどの人」ではないおれにとっては、じつに「まわりくどいこと言ってるな」と思える本であった。

ということは、しかし、「ほとんどの人」にとっては、刺激的な本かもしれない。もし、直観的に「存在してしまうことは害悪だ」ということに反対する人がいるならば、ちょっとこの本読んでみてもいいんじゃねえかと思う。

「訳者あとがき」に簡単にまとめられている本書の基本思想を最後に引用しておこう。

(1)苦痛が存在しているのは悪い

(2)快楽が存在しているのは良い

しかし、快楽と苦痛が存在していないことに関しては非対称的に考えられる。

(3)苦痛が存在していないことは、たとえその良さを享受している人がいなくとも、良い。

(4)快楽が存在していないことは、それが誰かにとっての剥奪でない限りは、悪くはない。

さて、どうだろうか。わからん、という人は本書を読むべきである。たとえこの分野の偉大なる先達、シオランにまったく触れてないとしても、いや、触れていないからこそ読むべきである。

反出生主義者はもっと大手を振って歩くべきである。「少子高齢化社会はわれわれ現役世代の将来にとっても……」などと言う人間は、新たに作られた人間を家畜か労働機械かとしか思っていない。それが正しいこととだれが言えるのか。おれは言えない。以上。

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たまには植物の本でも 『植物 奇跡の化学工場』を読む

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おれはわりと植物の話が好きである。

べつになにかの園芸植物にのめりこむわけでも、家庭菜園をするわけでも、そこらの樹木の同定ができるわけでもないが、漫然と、漠然と好きだ。

なかでも根粒菌の話などが好きで、「なに? イネ科で窒素固定?」とかいうニュースなど見るとテンションが上がる。

遺伝子編集でつくられた窒素固定細菌が、化学肥料の“代替”になる日がやってきた|WIRED.jp

一方、ピヴォット・バイオは、すでに自然界にあるものに活路を見出した。同社はトウモロコシの根に棲む細菌のなかに、窒素固定遺伝子がDNAにエンコードされている種が存在することを知っていた。

しかし、窒素固定はエネルギー消費が極めて大きいプロセスであるため、これらの細菌は必要なときしか遺伝子のスイッチを入れない。そして、農家はトウモロコシ農地に必ず窒素肥料をまくので、この遺伝子は何十年も休眠状態にあった。

そのスイッチを入れ直すだけでいいのだ。「わたしたちは微生物がもともともっていた能力を目覚めさせようとしているだけです」と、テムは言う。

こんな話、すごく面白いじゃないかって思う。まあべつにおれは化学肥料も遺伝子組み換え作物もぜんぜんオーケーなんだけど、遺伝子組み換え反対派の人は、このスイッチ・オンをどう考えるのだろう。

というわけでろくでもない低水準の知識で(あ、おれは算数と理科がわかんなくて涙目の小学生がおっさんになった生物なので)、おれもたまには植物の本を読む。

 

植物 奇跡の化学工場―光合成、菌との共生から有毒物質まで

植物 奇跡の化学工場―光合成、菌との共生から有毒物質まで

 

作者の二文字目が「?」になっているかもしれないが、柳の異字体「栁」、黒柳先生だ。

 植物は多彩な二次代謝産物(天然有機化合物)を生合成し蓄積しており、その人間に対する有用性が注目されてきた。しかし、植物にとっての二次代謝産物の存在意義についてはあまり議論されてこなかった。近年、植物の成長と繁殖のための生命活動を巧みにコントロールしている二次代謝産物の役割が明らかになってきており、植物による化学戦略が解明されつつある。

「はじめに」

というわけで、そういう本である。もちろん、「マメ科植物と根粒バクテリア」についても述べられている。

残念ながら、植物には窒素を固定(アンモニアなどの化合物に変換して生体に取り込む)する能力がないため、雷などの放電による自然現象で大地に降り注いだ窒素化合物を取り込んで利用している。

へえ、雷。「稲妻」には根拠あるのかな、などと思ったり。まあ、そういう研究もあるようだけれど。

「雷の多い年は豊作」伝承は本当だった! 島根の高校生が実験で突き止める(1/2ページ) - 産経WEST

まあいい、そういうわけで人間はハーバー・ボッシュ法で肥料を作ったりするわけだが、マメ科の植物は窒素固定のできる微生物と共生して、肥料をセルフ調達している。だから、木本のニセアカシアがグワーッと繁殖しちゃうのとかもそのあたりだろう。というわけで、その共生に関与するフラボン誘導体として、ナリンゲニン等のフラボン誘導体やダイゼイン等のイソフラボン誘導体が……って、そんなん知らん。化学式も載ってるけど、無視。いや、著者も「はじめに」で苦手な人は一瞥すればいいって言ってるし。

 最近はあまり見られなくなったが、かつては田んぼにレンゲの種をまき、5月頃に花が満開になると田んぼにすき込み、水を入れ田植えが始まる光景が普通に見られた。……近年は、合成窒素肥料が便利なため、レンゲをすき込む方法はほとんど行われなくなり、ピンク色のパッチワークのような田園風景が見られなくなりさみしい限りである。

 マメ科植物が持つ根粒菌との共生能力を、イネ科の植物や野菜に付与することができれば、窒素肥料の使用量を大幅に減らすことができ、多いな経済的メリットになる。

というわけで、化学式は一瞥で、こういうところを読む。なるほど、イネ科に根粒菌というアイディアはわりと考えうるものであったのか。

 

光合成

 で、いきなり話は本書の頭のほうに戻る。

半永久的(あと50億年は光り続ける)に降り注ぐ太陽の光を利用して、二酸化炭素と水からグルコースブドウ糖)を供給してくれる植物による光合成は、地球生命の生存を担っている。光合成を人工的にできれば、人類をはじめとする地球の生命にとって大きな恩恵が与えられる。そのため、昔から多くの科学者が人工光合成に挑戦したが、未だに実現されていない。

小学校とかで、植物についてまず習う……まずかどうかわからないが習うのが「光合成」だ。その光合成、まだ人工化に至っていない。部分的には、非実用的には技術が確立しているらしいが。

人工光合成 - Wikipedia

光合成、難しいか。関係ないけど、人工血液もできてないっぽいし、科学にはまだまだやるべきこともあるのかな、などと。いや、AIによって一気になにか成し遂げられてしまったりするのかもしれないが。

あと、光合成をする動物、というのもいる。その名も「ハテナ」(Hatena arenicola)だ。

ハテナ (生物) - Wikipedia

【第1回】ハテナという生物:植物になるということ < 一般向け情報 | 日本植物学会

あとは、サンゴやイソギンチャクは藻類を体内に住まわせていたり、海藻類を食うときに葉緑体を消化しないで体内に溜め込んで光合成をしているウミウシの仲間(Elysia chlorotica)なんてのもいるらしい。地球生命、もとを辿ればみな兄弟、なんかね。

 

エチレン

 追熟や渋抜きには、エチレンガスを盛んに発散するリンゴと一緒にビニール袋で保存する方法や、弱いエチレン作用のあるアルコール飲料である焼酎等を未熟な柿のヘタに塗って保存することがしばしば行われる。

 また、最も身近な例はバナナだ。我が国ではバナナは害虫侵入の防疫上の問題から成熟したものは輸入禁止されているうえ、傷みやすいので青い未熟な状態で収穫された後、国内で室に保存してエチレンガスにさらし、温度コントロールのもと追熟が行われ、よく見る黄色いバナナとして市場に出される。

いや、こないだ会社で上司が渋柿に焼酎塗ったのどっかから買ってきて、一週間くらいして食べたのだけれど、甘かったね。それとバナナね。成熟したバナナが輸入禁止とは知らんかった。……まだ青めのバナナを買って、焼酎を塗りつけるというのはどうだろうか。自分で食べごろを決める。とか思って「バナナ 焼酎」で検索すると、カブトムシやクワガタムシを捕まえるトラップの話ばかり出てきた。おれ、昆虫はあんまり興味ねえんだな。

 

アレロパシー

アレロパシーも、おれが植物について好きなことがらの一つだ。他感作用。なんかほかの植物が生えにくい化学物質を放出するやつ。植物にしてはアグレッシブだ。セイタカアワダチソウなんかはそれが強い。本書によると、日本での猛攻も、最近では勢いに陰りが見られるらしいが。あとは、奈良公園のナギから発見されたナギラクトンとか、オニグルミのユグロンとか。

ヘアリーベッチVicia villosa)というマメ科ソラマメ属の植物は、強い窒素固定とアレロパシーがあるため、果樹園や耕作前の田畑や休耕地にすき込んだり、敷きつめて使えるらしい。窒素補給と雑草防止の一石二鳥。

芝・緑化・緑肥 〜タキイの緑肥景観用作物〜 - タキイ種苗|ベッチ

最近あまり聞かれなくなったような気がするフィトンチッド。これも人間にはなぜか心地よいが、昆虫や微生物への攻撃だ。

おなじく、トウガラシ、コショウ、サンショウ、ワサビなどの辛味(痛み)も攻撃のはずだが、人間は美味しくいただいてしまっている。これもまた、その辛味(痛み)を快感としてきた人間が、そうでない人間より生存競争でなにかしら有利に働いた結果なのだろうか。ちなみに、「蓼食う虫も好き好き」のタデ(ヤナギタデ)にも辛味があるが、ヨトウガの幼虫であるヨトウムシだけはこれを好んで食すという。昔の人もよく見ていたものだ。まさかポリゴジアールというセスキテルペンがあるのに……という発見のあとに生まれた言葉ではあるまい。

 

植物のコミュニケーション

 植物・食植者。天敵三者系の例としてアブラナ科の植物、特にキャベツとモンシロチョウの幼虫アオムシと、その天敵である寄生バチのアオムシコマユバチとの関係が有名である。

いや、おれ知らんかった。キャベツがアオムシに食われると、シグナル物質を放出する。それによって寄生バチであるアオムシコマユバチが呼び寄せられ、アオムシの体に産卵し、孵化したハチの幼虫はアオムシを食って退治する、という。

……すげえな。これが、突然変異のダーウィン進化の結果というのが、にわかには信じがたくなってくる。どこかの賢いキャベツが生存戦略を考えたようにしか思えない。とはいえ、同じように天敵を呼ぶ植物としてトウモロコシやタバコがあるらしい。

植物間のコミュニケーションがあるということもわかってきたらしい。

 植物は、昆虫や草食動物による食害等のストレスを受けると、揮発性のモノテルペンを放出し、さらに植物ホルモンであるジャスモン酸メチルやエチレンも発散する。

あるいは、草刈りを行ったときに漂う独特の匂い。あれもそういった成分で、その情報は同じ仲間の植物のほか、他の植物に対しても伝えられているらしい。トマトなんかも食害情報をほかの個体に伝えて、伝えられた個体は食害昆虫の成長や生存率を低める配糖体を生成するという。いやはや。

 

就眠運動

最初に載っけた写真は会社の鉢植えで実生から育てた(おれがやったわけじゃないけど)ムラサキソシンカ(と思われる植物)。こいつはえらい早さで生長して、ずいぶんと横浜の室内がお気に入りのようだ。それで、夜になると「おやすみー」とばかり葉を閉じる。昼は光合成のために開いておくが、夜はその必要がないために閉じるという。いや、べつに開いておいてもいいんじゃね? と思うのだが、そうすることによってなにかしらの有利な点があったのだろう(食害を受けにくいとか)。これも、あるいはオジギソウのあれも、化学物質の働きだそうだ。

 

生物は無駄なことはしないという考え方からすれば、多彩な二次代謝産物の生合成は、植物にとって遊びではなく何か意味があるはずだとの結論に至る。ならば二次代謝産物は植物の生存戦略のために作られていると考えるのは自然の成り行きであろう。

「あとがき」

生存戦略、意味、といっても、これもまたもちろんダーウィン進化の結果論、ということになる。が、やはりどうしても能動的な進化という印象を持ってしまうし、そこに戦略だの意味だのがあるように思わざるをえないよな、と感じなくもない。そこがまた興味深い。

というわけで、『植物 奇跡の化学工場』。面白いし、ページ量が割かれている毒系の話は抜かしてしまったが、化学式とカタカナの物質名を一瞥するだけでいいというなら、スラっと読めてしまうし、化学式を読めるという人ならもっと楽しめるだろう。生まれ変わったらもっと算数ができて、根粒菌の研究などに身を捧げたいものである。とはいえ、生まれ変わるころには人間が光合成するようになっているかもしれないがな。シドニアー。

それじゃあ、おれもネムノキなので、おやすみなさい。

『超越と実存「無常」をめぐる仏教史』を読む

 

超越と実存 「無常」をめぐる仏教史

超越と実存 「無常」をめぐる仏教史

 

「超越と実存」と言われると、なにやら近現代西洋哲学(よくわからない)のような雰囲気があるが、実のところ「無常をめぐる仏教史」の本なので安心してほしい。いや、おれが安心しただけなのだけれど。

とはいえ、もちろん、「超越と実存」は本書の大きなテーマである。これをもとに著者が仏教史を突き刺している。

 「超越」的存在は、時には「本質」や「実体」などと呼ばれ、その存在を前提とすれば、無常の実存は「現象」とか「属性」などと規定される。

 すなわち、私が思想には仏教と仏教以外しかないという言う意味は、「実存」と「超越」との関係で考えるのか(仏教以外)、「超越」抜きで考えるのか(仏教)どちらかだ、ということである。

 

その上で、さらに著者はこう言う。

私は、仏教思想の核心にある問題は言語、より正確に言うなら、言語において意味するもの(言葉)と意味されるもの(経験)の間にあると考えている。事実上、本稿で議論の軸をなすのは、表立って言及するかどうかは別として、言語なのである。

不立文字とは禅の物言いであるし、拈華微笑なども「言語」や「言葉」を否定するようなものかもしれないが、著者はあえて「言語」を核心という。著者は永平寺で二十年只管打坐した僧である。そうであるにもかかわらず、そういうのだから、そりゃ深みもあろう。

して、この本において語られるのは、ゴーダマ・ブッダの教えである「実存」の考え方に「超越」的理論がインド、そして中国で加わっていった過程である。その過程の末に、日本仏教、親鸞道元においてどう発展したのかという話である。

このあたりの仏教史というと、先ごろ読んだこの本を思い出す。

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南直哉が佐々木閑を、あるいはその逆をそれぞれどう考えているかしらんが、いくらか重なっているところはあるように思える。まあ、仏教史をたどっているのだから、そういう話にはなるのだろうけれど。

して、最後にたどり着く日本とはどういう場所であったのか。

……後に「日本」と称されるようになった共同体では、地縁血縁を原理とする組織構成や秩序構築の持続が可能であったゆえに(アニミズムが近代国家を形成するという世界史上特異なケース)、「そのまま」「ありのまま」の「現実肯定」的アイデアが、『古事記』後の思想的言説の根底に、常に強力に作用し続けることになる。

ギリシアの神話も、異民族、異教の侵入によって哲学へとなった。一方で、日本はそれを経ずに「ありのままに」のアニミズムが維持されたという。

「ありのままに」。これが空海によって理論化された密教思想であり、あるいは本覚思想に通じ、またあるいは明恵上人の「阿留辺幾夜宇和」に通じるところなのである。

その「ありのままに」を否定したのが法然だという。法然は戦乱の世に対して「ありのまま」では通用しないと考えた。そして、以下のような思想を持って現れたという。

 一つは「日本」に対する革命。

 『古事記』的アニミズムを底流としつつ、まさに「ありのまま」主義的形而上学たる『天台本覚思想」が形成過程にあった思想状況において、彼はいきなりキリスト教のごとき「一神教」のパラダイムを導入したのである。これほど妥協なき超越性を主張する思想は、彼以前の日本には一つもなかった。

 もう一つは「浄土教」に対する革命。

 仏教思想の骨格は、凡夫が修行して悟り、成仏して涅槃に入るというものであり、これが公式である。

 従来の浄土教思想は、いずれもこの公式を認め、特に煩悩多く修行能力の低い衆生を、如来が慈悲によって成仏に導く補助手段として、浄土の教えと念仏実践を考えていた。つまり、あくまでも副次的教えだったのである。

 ところが、法然はこれが仏教における最高絶対のアイデアであり、如来の真意なのだと主張したのである。これは当時、法然以外の全仏教者にとって受け入れ難い思想だっただろう。

ここに、「あるべきやうわ」の明恵との思想的対決が現れる。あー、そういうことだったのね。

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ふーん、そうか、そういうことだったのか! と、なる。サクサクっとその思想の対決を書き表してくれる。それでなぜ「法然明恵」だったのかわかったような気にさせてくれる。すばらしい。

同じく、すばらしいと思ったのは、ナーガールジュナ(龍樹)の読み方である。おれはこの箇所がさっぱりわからないながらも、なにか気になっていた。

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まず、すでに去ったものは、去らない。また未だ去らないものも去らない。さらに〈すでに去ったもの〉と〈未だ去らないもの〉とを離れた〈現在去りつつあるもの〉も去らない。

 これをこう読み替える。

この理屈は、「彼は歩いている」という、普通は誰も疑わない対象認識を、真っ向から否定する。すなわち、彼はいま歩いている以上、すでに「歩いている彼」である。その彼がさらに「歩く」ことはありえない。だから、歩く彼は歩かない。そして、歩かない彼は当然歩かない。歩く彼でもなく、歩かない彼でもないなら、いったい誰が、歩くのか。

肝心なところは、最後の一文なのだろうし、それが「行為から切り離された主体それ自体の存在の否定」になり、「無記」へ通じるというが、いやはや、それ以前に、そういうことだったのですか、というところだ。

で、話はバラバラに飛ぶが、本書で最後に触れられているのが親鸞道元だ。最後の親鸞だ。そして、著者が賭けているところの道元だ。

 ……「ありのまま」主義の思想風土は、本来形而上学を必要としなかった。ならば、超越的理念や実体論的思想と正面から対決した上でそれを解体し、無常・無我・無記・縁起の思想を確保する言説が、「日本」に現れる可能性も必然性もあるはずである。

 その言説こそ、親鸞道元の思想と実践であり、いわば「日本」における形而「上」学ならぬ形而「外」学であり、ゴータマ・ブッダの根本思想をそれぞれの方法で捉え直したのだと、私は考えている。

形而外学、ときたもんだ。

親鸞について。

 親鸞において、「信じる」行為それ自体が主題化してくる必然性はここにある。そして、主題化してしまった以上は、もはやそれは単純に「信じる」行為を不可能にするだろう。「信じるとは何か」を問う人間が、同時に「信じる」ことは不可能である。

 親鸞浄土教との間の深淵は、この「信じる」行為への問い、すなわち、その時点で「信じる」ことができなくなっている事態にある。けだし、彼の言う「悪人」とは、この「信じることができない」実存の根源的危機のこのことなのだ。

著者は法然親鸞の「非連続」を説く。鈴木大拙が「思想的に同一と見てよい」とか言っていたのとは大いに違う。この「信の構造」は……たいへんに興味深い。いや、興味深いと思っていたのだけれど、まったくわかっていなかったな。

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 ……通常の善を行うという意味の念仏は必要ないのだ。ということは、残るのは「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」の発生行為のみである。

 事ここに至って言えることは、親鸞のアイデアは、かろうじて「仏教」の範疇に留まっていた法然の浄土思想を突破し、それが内包する超越的理念(阿弥陀如来と極楽)を、悉く「念仏」という行為に落とし込み、消去してしまったのである。

 親鸞に結実した思想は、人間という「無常」の実存を、超越的理念によって根拠付ける形而上学ではない。むしろ、「無意味」な念仏、すなわちそれ自体「無常」な称名行為において自覚的に許容するという、形而「外」学である。そのような彼の登場は、もともと形而上学を持たなかった「日本」の思想風土においてこそ可能だった、と私は考える。

一方で、釈尊の根本理念への直接回帰を意識したのが道元という。

……するとここまでの言い分からして、「仏」とは「仏のように行為する」実存の呼称である、ということになる。このとき、「悟り」も「涅槃」も現実的には何であるか認識不能だから、「成仏」は「自己」にはできない。「自己」に可能なのは、「仏になろうと修行し続ける」主体として実存することである。すなわち、「仏」は「仏になろうとする」主体の実存様式である以外に、現実化しないのだ。

 したがって、修行僧が「成仏」したり「悟る」ことはない。なぜなら、ある時点で「成仏した」「悟った」と「わかった」瞬間、それが認識である以上は概念化するわけで、結局は超越理論として扱われるからである。それは「観無常」の立場が決して許容しない事態である。

『正法眼蔵随聞記』読了。 - 関内関外日記(跡地)

いやあ、そういうことだったのか。

 

……と、本書を通して、本書の著者の目を通して仏教史を通貫すると、なるほどと思えることが多くて、これには参った。目からウロコの連続である。おれはわけもわからずに、いろいろな教えや解釈のかけらを齧っていただけにすぎないな、と思った。とはいえ、おれが本書で「そうだったのか」と思えるのは、いくらはかけらを齧っていたおかげでもあるはずで、「まずはこの本から読みなさい」とも言えないのである。あらゆることにおいてそうなのかどうかはわからないが、行きつ戻りつ、それによって多少なりとも自分の血肉としての言葉ができあがっていくのであれば、それでよい、ということにしておく。

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シオラン『深淵の鍵』をざっと読む

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E.M.シオラン選集〈5〉深淵の鍵 (1977年)

E.M.シオラン選集〈5〉深淵の鍵 (1977年)

 

国文社のシオラン選集の最終巻である。このシリーズが出た時点でのシオランネタも尽きた、という感じの一冊である。「ジョゼフ・ド・メーストル論」も、メーストルよく知らんし(いまWikipediaで読んでみたらちょっとおもしろそうな人だったが)、「ヴァレリーとその偶像たち」も、ヴァレリーよう知らんし、というところ。

そして、巻末はわりとながい出口裕弘の『E・M・シオラン論』だし、そのなかの幾分かは『苦渋の三段論法』のアフォリズムの引用である。むろん、この『論』は発表当時にシオランを日本に紹介するという貴重な役割を果たしたものだ。

とはいえ、ここに引用されているアフォリズム、おれが『苦渋の三段論法』で見落としていたか、おもしろいのがあったので引用の引用をする。

「男と女にはふたつの道が開かれている。すなわち残忍さと無関心だ。一切の事情から見て、男女はこの第二の道を採るように思われる。彼らの間には理解も決裂もなくなるかわりに、たがいに離れあって、男色とオナニズム――学校と寺院がきそって推奨する男色とオナニズムが、いずれ大衆を獲得する時が来るだろう。廃棄された山のような悪習が力を取りもどし、科学的方法が、痙攣の能率を倍加させ、カップルの呪いを完成してくれるであろう」

このあたり、どうだろうか。もとよりシオランは反出生主義者であって、男女の愛だの恋だのは相手にしていないところがある。それを極端に書くと、こういうことになる。なにか男女の話、フェミニズムの話などこわごわ覗き見ると、互いに残忍な言葉を投げつけあってるのを目にすることもあるが、無関心の方がましではあろう。そして、互いに同性愛とオナニズムに引きこもるほうが平和である。そのための、一層の「科学的方法」……バーチャル・リアリズムなり、ロボットなり、薬物なりの方法が深化していくことを願うべきに違いない。

話を『深淵の鍵』に戻そう。この表題作は、こういう経緯で書かれたものらしい。訳者付記から。

 訳出したE・M・シオランの「深淵の鍵」は、もともと美術関係の豪華本の出版で名のあるジョゼフ・フォレが、1961年に制作した『アポカリプス』と題する大作に収録されたものである。羊皮紙を用いた一冊かぎりの本で、表紙はブロンズ、そこに宝石がちりばめてあろうという凝りようであった。数年前、日本でもこの本の全容が展示されたことがあるから、実物を見た人もいるに違いない。シオランは、この一冊しか存在しない本のために、ここに訳出した文章をつづり、肉筆で羊皮紙に刻んだのである。

「ジョゼフ・フォレ」で検索してくると、次のページが一番上に出てきた。

APOCALYPSE

……この本、だよな。あ、「画家7名と文学者7名の肖像」の画像クリックすると、シオランの写真と名前があるやん。いやはや。しかし、出口さんは自分で刻んだように書いているが、どうもそうではないようだ。あと、関係ないけど澁澤龍彦が好みそう、あるいは逆に「ぞっとしない」とか言って触れそうな本だよな。

しかしまあ、こんな本を作ろうというのもすごいし、そこんところで誰に書かせるか、でシオランが選ばれるという。なんという趣味の極みがあるものだろう。現代でこれを作ろうとしたら、どんな文学者が選ばれることだろうか、あまり想像はつかない(おれが知らないだけだろうけれども)。

力を得るにつれ、人間はいっそう傷つきやすくなるものだ。人間がおそらくもっとも深く怖れているのは、創造が完全に扼殺され、人間が勝利の祝典を張るその瞬間なのだ。人間はおそらくこの宿命の大祭典、この戦勝の祝宴のあとまでは生き残れないのである。あらゆる野心、あらゆる夢を実現する寸前に、人間は消滅するだろうというのが、一番ありそうな図柄である。人間はすでに充分に強大であり、なぜこれ以上強大になりたいと渇望するのか、知れたものではない。これほど飽くことを知らぬ貪欲さの裏には、救いようのない悲惨があるのだろう。本質にまで根ざした頽廃が隠されているのだろう。植物も動物も、彼ら自身のうちに救いの徴を持っているが、人間のほうは滅びの徴を持っているとしか言いようがない。このことは、私たち各人それぞれに真であり、また、不治のものの閃光に目がくらみ、地に打ち倒された人間という種の全体についても真である。

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シオラン『時間への失墜』を読む

 

時間への失墜 (E.M.シオラン選集)

時間への失墜 (E.M.シオラン選集)

 

 「おまえ、立て続けにシオランばっかり読んでるけど、飽きてこないか?」と言われそうだが、実のところ飽きてきている。とはいえ、今、一気にぶち当たらなければいけないという気がどこかでしていて、それでおれの身になるというわけでもないだろうが(というか、シオランを身につけてなにか実利になることがあるだろうか?)、ともかく今なのだ。同じような思いでおれはセリーヌの全集を読んだ。結論として、セリーヌで読むべきなのは『夜の果てへの旅』と『なしくずしの死』の二作といっていい。あとは「ゼンメルヴァイスの生涯と業績」くらいだろうか。とはいえ、チャールズ・ブコウスキーセリーヌを「歴史始まって以来の最高の作家」と言っている。「ゼンメルヴァイス」についてはカート・ヴォネガットが高く評価している。

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……それはともかく、シオランだ。

『時間への失墜』はアフォリズム集ではない。それだけで、やや骨が折れる。とはいえ、そのなかからアフォリズム的になんらかのエッセンスを抽出できないか。

どんな卑しい動物も、もっとも高貴な動物と同じように、いずれもみな自分の運命を受け入れ、それに満足し、あるいはそれを甘受している。どんな動物も人間を範と仰ぐことなく、また人間の反逆の真似もしなかった。その動物にもまして植物は、被造物であることを喜んでいる。イラクサでさえいまだに神のなかに息づき、ゆったり寛いでいる。ただ人間だけが神のなかで息をつまらせているのである。

生命の樹

人間の意識いうもの、あるいは自意識いうもの、そういうものと悪しき造物主、これに対して動植物の天国を説く、といったらおかしいか。あるキリスト者が「原罪とは死ぬことだ」みたいなことを言っていたように思うが、生への認識、死への認識いうものと、そこから生まれる災厄、かなあ。

 健康な者はどんな取り柄があるにしろ、いつも期待を裏切る。ほんのわずかでも彼の言葉を信用することはできないし、口実か軽業以外をそこに見てとることもできない。たあ恐ろしいものを経験してはじめて、わたしたちの言葉にはある種の厚みがそなわるが、健康な者は、こんな経験はもち合わせていないし、病人というあの隔絶された人々との意思疎通に不可欠の、災厄についての想像力などなおのこともち合わせていない。

「病気について」

こんな呪詛はどうだろうか。健康な者は「なに言ってるんだか」と一笑に付すことだろう。だが、この言葉はおれのような病める人間にとっては救いのようにも思われる。

病気を克服できない以上、わたしたちのなすべきことは、病気を育て、楽しむことである。

 

苦痛を愛することは不当に自分を愛することであり、自分の存在を何ひとつをも失いたくないと思うことであり、自分の欠陥・不具を味わい楽しむことである。

 

人間の出現要因の一覧表のなかで、最初に上げられるのは病気である。だが人間がほんとうに出現するためには、人間には原因のない病気が人間の病気につけ加えられなければならなかった。なぜなら意識とは、めくるめくほど多数の、発現が遅れ、抑圧された衝動の完成であり、人類が、そしてすべての種が経験した障害と試練の完成であるから。

そして、人類は、ほかの種に対して例外的な責め苦を負った自らの試練を正当化し、意味を与えようとする。病むべくして生まれ、健やかにと命ぜられ、とはだれの言葉だったか。ともかく、ここにはなにかのシオランの転倒の発想があって、ある種の人間、おれのような病んだ精神の持ち主を引き寄せる。そして、変なふうに勇気づけられもする。そこにシオランの持ち味があって、長い時間を経て再評価されるに至った理由でもあるだろう。

というわけで、あと数冊だろうか、まだシオランを読む。できれば何冊か手元に置いておきたい。

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シオラン『悪しき造物主』を読む

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悪しき造物主〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

悪しき造物主〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

 

「こいつ、野球と競馬とシオランの話しかしてねえな」と思われるのであれば、それで一向にかまわない。『悪しき造物主』。『時間への失墜』と『誕生の災厄』の間に書かれたものである。

 常軌を逸したわずかな場合を除けば、人間は善をなそうなどとは思わぬものである。

本書の最初の文章がこれである。このあとにも文章は続くが、決してこれを逆転させるふうには進まない。この段落の最後はこうだ。

いやそもそも人間が存在なのかどうかさえ、ほとんど分かったものではない。人間はひとつの幻影ではないのか。

これである。この調子が好きだという人もいれば、気に食わないと思う人もいるだろう。おれは圧倒的に前者すぎて困る。

 克服すべきものは、生への欲望よりはむしろ<子孫>に対する好みである。親、産みだす者たち、彼らは扇動者か、さもなくば狂人である。出来損ないの最たる者に、生命をもたらし、<産む>能力があるということ以上に、私たちを失望させるものがまたとあろうか。どんな人間をもおかまいなしに造物主めいたおのに仕立て上げてしまうあの奇蹟を想いみるとい、どうして恐怖や嫌悪なしにすまされようか。

 それでもって、きました反出生主義。強烈な物言い。そして、「悪しき造物主」がなにを指すのか、刺すのかというところでもある。もっとも、シオランは神もしっかり刺しにいっているので安心である。安心?

 俺は自殺するつもりだと考えるのは健康にとってよいことだ。この問題以上に疲れを癒やしてくれるものはない。この問題に取り組み始めると、私たちはたちまちほっとした気分になる。この問題を考えることは、ほとんど自殺行為そのものと同じように私たちを自由にしてくれるのである。

自殺という観念がなければとっくに自殺していたというシオランらしい物言い。健康のために野菜を食う必要も、走る必要も、瞑想も必要ない。自殺について考えろ。そうしたら、シオランくらい長生きできるかもしれない(享年84)。

そして、「自殺との遭遇」ではこんなことも書いている。

 いまだかつて一度たりとも自殺を考えたことのない者は、絶えず自殺を念頭に置いている者よりもずっと素早く自殺を決意するだろう。決定的行為というものは例外なく反省によるよりは無分別によって、はるかに容易に達成されるものであるから、自殺に無垢な精神は、ひとたび自殺しようという気になると、この唐突な衝動を抑えようがないのだ。

それってエビデンスあるの? というような現代社会だが、しかしはこれはこれでありそう、という気にはなる話だ。「心理学的剖検」による調査は以下の本でも。

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そして、本書、だんだんアフォリズムになっていく。

 孤独でありたいという欲望がいかにも強く、誰かと言葉を交わすくらいなら、おのが頭蓋をピストルでぶち抜いた方がましだという瞬間があるものだが、大切なのはこういう瞬間だけだ。

うはは、はるか古から、いろいろな人間が「大切な瞬間」について述べてきたろうが、これはいい。そんな瞬間がない人間とは話が合わなそうだ。頼むから静かにしてくれ。人は弱いから群れるのか、群れるから弱いのか?

とはいえ、こんなことも言う。

世に忘れられて死ぬよりは軽蔑されて死にたい、これが栄光を願うということだ。

もっとも、栄光など求めてなんなのだ、という話なのだろうが。

 文学の場合もそうだが、人生においても反抗には、たとえそれが純粋なところではあっても、どこか嘘っぱちめいたところがある。一方、断念となると、たとえ無気力から生まれたものであっても、つねに本物の印象を与える。どうしてこんなことになるのか。

これもまたどうなのだろうか。どうなのだろうかというか、おれはなんとはなしにこれは正しい印象だな、と思うわけだが。そしておれは断念のおめかしをしてブログを書いている。そういうことを明かしてしまうあたり、おれは正直者だ。走る正直者だ。

苦しんだことのない者との会話は、すべて例外なく下らぬおしゃべりにすぎない。

自殺を考えたことのない人間と話しても、話が合わないだろうし、これもそうだろう。ただ、「自分は苦しんだことがない」と思っている人間などは、常軌を逸した人間であってそうそうお目にかかれないだろう。だが、それっぽっちの苦しみ? と、おれが思ってしまう人間とは、やはり話が合わないだろう。自分の苦しみについて人間は驕慢になるところがある。

私が論争に加わる気にならないのは、論争にかかわっている連中を見ると、感心はするが尊敬するわけにはいかないという人間があまりに多すぎるからである。私からすれば、それほど彼らは素朴に見えるのだ。こういう連中をどうして挑発する必要があろうか。同じトラックでどうして張り合ういわれがあるだろうか。わが倦怠が私に授けてくれた優越性たるや、彼らが私に追いつくことなどほとんど不可能と思われるほどのものなのだ。

おれはもうずいぶん論争めいたことをしていないし、ネットで起きる論争めいたことにほとんど価値を見出だせない。価値というか、まずそれ以前に興味を惹かれない。そのひとつの理由に「論争にかかわっている連中を見ると、感心はするが尊敬するわけにはいかないという人間があまりに多すぎるから」というのはあると思う。おまけに、インターネットときたら、賢い人間も犬もやっているものだから、話はかみ合わないことは往々にしてあるし、裁定者もいない。ひたすらにぐだぐだと呪詛と攻撃の応酬になってしまう。そこから得られる知見というものもあるのだろうが、その知見を得るのに支払う時間がもったいない。おれはできるだけいっちょかみしないようにしている。できているかどうかはわからないが。

 軽薄にして支離滅裂、何事においても素人のこの私が、底の底まで知り抜いたのは生まれたことの不都合さ、ただこれだけだ。

ぜんぜん、軽薄で結構。セクシーランジェリー。では。

 

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シオランの若書き『欺瞞の書』を読む

 

欺瞞の書 (叢書・ウニベルシタス)

欺瞞の書 (叢書・ウニベルシタス)

 

……最後の暗礁は、著者その人がこの著作を忘れており、そればかりか、そこにはもう自分の姿は認められないと、われわれに語ったことだった。

―仏訳者注記

というわけで、ルーマニア語で書かれたシオランの二作目の著書のフランス語訳の全訳である。日本語訳者によれば「爆発するバロックの文体」と評されているらしい。

なるほど、読みにくい。というか、おれが日本語を読む力を少し失い、そのリハビリ中であるということも関係するかもしれない。リハビリにはアフォリズムがいい。だが、本書はバロックだ。バロックがなにか知らないが、ロックの仲間かもしれない。ここには午前三時のファズギターが響き渡っていて、じっくり読むには骨が折れた。

音楽的エクスタシーは同一性への回帰であり、始源的なものへの、存在の最初の根源への回帰である。そこにあるのは、もはや存在の純粋なリズム、生の内在的な、有機的な流れだけだ。私は生を聞く。ここに、一切の啓示が生まれる。

というわけで、本書に数多く見られるのが「音楽的エクスタシー」とやらだ。とはいえ、これは後年のシオランの著作にも見られる趣味以上の趣味であって、いや、音楽に限らず本書には後のシオランの方向性の始源的なものが散りばめられているといってもいい……かもしれない。

私たちの内部で明瞭なかたちをとろうとするさまざまの感情、そして記憶、こんなものは何としてでも根絶せねばならぬ。持続する一切の執着、わずかに持続する悔恨と希求、こういったものはいずれも例外なく、私たちの生きる妨げとなり、私たちの自由を奪い、私たちの存在にくだらぬものをつめ込む。記憶や欲望が何の役に立つというのか。

このあたりなど、仏教、というか釈尊の教えに傾倒する感じが出ているように思える。

自由はあまりにも大きく、私たちはあまりに小さい。人間のなかで、自由に値した者はいたのか。人間は自由を愛するが、しかしまたそれを恐れる。

こんな風に引用すると、後のアフォリズムのようにも見える。「人間のなかで、自由に値した者はいたのか」。なんとはなしに自由はいいものだ、自由になりたい、自由に生きたいなどと思っているわれわれ、いや、おれにとっては、急所を刺されるような一撃だ。おそろしい。

苦しみを知らぬ者はまったく人間ではない。まじりっ気なしの人間であるためには、粉砕されていなければならぬ。苦しみの作業は次のようなものだ。つまり、人間を解体し、そして解体のなかで人間を強固なものにすること。私たちは自分の最後の残骸を失い、自分の魂を絶滅させたあげく、苦しみの結果である無の抵抗を取り戻し、おのれ自身の残骸に勝利をおさめるのである。

このあたりはなんだろう、バロック的なのか? おれにはあまり意味がわからない。この文章の前後を読んでもよくわからない。ただ、なにかほとばしってる感じはする。もう若くもないし、若書きすらないおれが言えたもんじゃないが、若書きだなぁ、などと思うのである。反出生主義も直接的に述べられていない。むしろ、なにか「生」に向かっているように思われる。そのあたりが、後のシオランをして「そんな著作しらねー」と言わせるところかもしれない。

というわけで、どういうわけかわからないが、まあともかく「シオラン読んでみようか」と思う人がいるとしたら(いないような気がする)、とりあえず後年のアフォリズムから入るのがいいと思う。年代順に読んでいこう、と思うと、なんだこりゃ、となるかもしれない。とはいえ、それはおれにクラシック音楽の知識がなく、また、キリスト教社会に生きてこなかったことによる、それに対する実感の欠如というものが原因かもしれない。まあ、好きにするこった。

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こんなに面白い本があるか!(今のおれに)『シオラン対談集』を読む

 

シオラン対談集 (叢書・ウニベルシタス)

シオラン対談集 (叢書・ウニベルシタス)

 

今、シオランにハマっているおれにとって、これは非常に、とても、かなり、すごく、面白い本なのであった。シオラン? という人にとってどうかはわからない。だが、もしもシオラン? という人がいるとすれば、一、二冊著作を読むくらいで、この本は相当に面白く感じられるだろう。そう願う。

つうわけで、シオランの対談集だ。対談集といっても、シオランが哲学者だの思想家だのを相手に選び、なにかについてとことん語る、という本ではない。新聞や雑誌のインタビューが多い(とはいえ、哲学者も出てくるし、インタビュアーはしっかりした見識の持ち主だけど)。だから、同じエピソードが何度も出てくる。でも、それによってシオラン像が浮き出てくるようで、そこが面白いんだ。

サヴァテール―幸福な少年時代だったんですか?

シオラン―それはとても重要なことです。というのも、私の少年時代よりも幸福な少年時代の事例にひとつとしてお目にかかったことがないからです。カルパチア山脈の近くで、私は義務も宿題もなく野山を自由に遊びまわっていました。それは異常に幸福な少年時代でした。その後、少年時代について人と話したことがありますが、私の少年時代に匹敵するものに出会ったことはありませんね。できれば私は、この村から決して離れたくなかった。両親が私を町のリセに連れてゆくために私を馬車に乗せた日、あの日のことは忘れられません。それは私の夢の終わった日、私の世界がついえ去った日でした。

幸福な少年時代があったからこその、後のシオラン。落差が生んだ不幸、呪詛、歴史への疑義。この少年時代については、本書で何回も語られる。ちなみに、おれはといえば、幼稚園に入園する日が幸福時代の終わりだった。おれの幸福は短かった。おれは集団というものを忌み嫌う。

……もっと極端なことを言えば、もし書かなかったら、私は人殺しになっていたかも知れませんよ。表現とは解放です。あなたが誰かを憎んでいて、そいつを厄介払いしたいと思っているなら、こうやってみてはどうでしょうか。つまり、一枚の紙を取り上げ、そこにXのバカ野郎、悪党め、人でなし、怪物めと書きつける。そうすれば、憎しみがやわらいだことにすぐ気づきますよ。私が自分自身にたいしてやってきたのはまさにこういうことです。私は生を、そして私自身を罵倒するために書きました。その結果ですって? 自分自身の存在によりよく耐え、生によりよく耐えることができました。

自殺という選択肢を持つによって生き、書くことによって生に耐えたシオラン。自分自身への罵倒、表現による解放。ちっぽけながら、おれにもそういうところはあると思う。もしもおれがブログなりなんなり「書く」ということがなければ、どうなっていたかわからないというところはある。自殺なり、人殺しなり。おれはおれに向かって書く。特定のだれかに向かって書く。不特定多数のだれかに向かって書く。ブログのいいところは、数人に読まれているのか、数十人に読まれているのか、そのあたりが曖昧なところだ。

 

……『ル・モンド』紙の批評家が「あなたはわかっていない。若者がこの本(引用者注:『崩壊概論』)を手にするかもしれないんですよ!」と非難の手紙をよこしたことがありました。バカげたことですよ。本が何かの役に立つとでも思っているんですかね。何かを知るための? そんなこと、ぜんぜん関係ない。だってそうでしょ、何かを知るためだったら、授業に出ればいいんですから。そうじゃなくて、本というのは正真正銘ひとつの傷口であって、読者の生をなんらかの意味で変えるものでなければならないと思っているんですよ。だれかを目覚めさせ、打ちのめしてやれ、私はそう思って本を書いている。私が書いた本は、私の苦しみとまでは言わないまでも、私の不安がもとになっていますから、私の本がいわば読者に伝えるものといえば、当然そういう不安のはずです。そう、私はね、新聞を読むように読まれる本が好きじゃないんです。

これも痛烈にいい。おれはあまり「役に立つ本」が好きではない。自己啓発、ビジネス書、まったく興味がない。そんなものに一秒も使いたくない。それよりも、シオランなど読んで打ちのめされたい。ラーメンが獣臭い本、人殺しの顔をしている本、そういうものを読みたい。

本を読んでも、読者が読む前と同じ人間でいられるような本、こういう本は失敗作ですよ。

まさに。

 

サヴァテール―ユートピアとは、いわば社会に内在する非超越的な権力の問題ですよね。シオランさん、権力とは何ですか。

シオラン―権力とは悪しきもの、きわめて悪しきものと思います。権力が存在するという事実にたいして、どうしようもないものと諦めていますが、でも、権力とは、一種の災厄だとも思うんですよ。私はね、権力を掌握した人間をなんにんか知っていますが、そういう人間にはちょっと恐るべきところがある。有名になった作家にあるのと同じ恐るべきところがね。まあ、制服を着ているようなものですかね。制服を着ちゃうと、人間はもう同じ人間ではない。つまりね、権力を掌握するというのは、いつも同じの、目に見えない制服を着るということですよ。

「巨大なものはすべて悪である」と田村隆一は書いた。権力はすべて悪しきもの。アナーキーといっていいのかどうか知らん。制服を着た人間……人間は腕章一つで変わるとおれは書いたことがある。

制服の世界 - 関内関外日記(跡地)

それでもわれわれはときに自分の制服を着て、悪しきものにならねばならぬ。果たして、政治家とかいう連中は、自らを悪しきものであるという一片の自覚でもあるのだろうか。あってほしいものだが。

 

ベルツ―とすると、人はそれぞれもう自分のために生きているのであって、だれか他人のために生きているのではないということになりませんか。

シオラン―いや、そういうことはない。私はエゴイストじゃない。エゴイストという言葉は、まったくふさわしくないでしょうね。私は思いやりのある人間で、他人の苦しみは、じかに私に響く。でも人類が明日消えてなくなっても、私にはどうでもいい。最近、「不可避の災厄」という一文を書いたほどですよ。人類の消滅、これは私の気に入りの観念でしてね。

このあたりがシオランの面白さだ。他人の苦しみは自分に響くといい、一方で、人類など消滅してしまってもいい、消滅するべきだという。心優しき反出生主義である。苦しみの再生産に異議を唱える。おれも、今いる人間を殺すほどではないが、新たに増やす必要はない、という立場を取る。シオランを読む前から。

 

……でも、こういうアフォリズムのたぐいは、崩壊しつつある文明にはまことにふさわしいと私は考えます。もちろん、アフォリズムの本を端から端まで読む必要はない。混沌の印象、真面目さがまったくないという印象を受けますからね。こういう本は、もっぱら夜、寝る前に読むに限ります。あるいは、ふさぎの虫にとりつかれているときとか、嫌悪感にとりつかれているときとかねに。

あはは、おれが思ったことを言ってくれた。愉快だ。

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おれは「ふさぎの虫」にとりつかれたとき、それでも読めるのはアフォリズムだ。そう思った。シオランも言っているのだから、そうなのだ。精神疾患を抱えて、ときおり動けなくなるあなた、シオランの一冊でも用意しておくといい。むろん、それによって快方に向かうなんてことはないのだけれど。

 

……私は詭弁家ではないですから。モラリストは詭弁家じゃない。私のアフォリズムは経験のなかで考えついた真実、不統一を装った真実ですから。そのように受け取ってもらわないとね。でも、アフォリズムには明らかに利点がある。それは証明する必要がないということ。平手打ちを食らわせるように、アフォリズムを叩きつけるわけですよ。

モラリスト - Wikipedia

「道徳家」(moralisateur)とは別の概念であり、日常的にはそのような意味で使われることがあるが、混同されるべきではない。道徳家は道徳を教える教訓を書くのであるが、モラリストはまず記述的な姿勢を取るのであり、道徳家とはむしろ対極的である。

できることなら、Wikipediaのこの項目にシオランの名前も連ねたいところだ(フランス語版には関連項目としてシオランの名がある)。シャンフォールなどシオランがよく言及する名前だ。

 

……すると、時代というものを考慮しなければなりませんが、神父の、実際は東方正教会の司祭の妻だった母が私にこう言ったのです。「わかっていれば、中絶しておくんだった!」と。この言葉は私を打ちのめすどころか、私にとって解放であったと言わなければなりません。この言葉で、私は気力を取り戻した……と言いますのも、自分がまぎれもないひとつの偶発事にすぎず、自分の生を真面目に考える必要がないことがわかったからです。それは解放の言葉でした。

このエピソードも本書に何度か出てくる。しょせん、人間は偶発事によってこの世に生み出されたにすぎない。そして、それは呪われたことかもしれない。一方で、自由なことであるかもしれない。

アルミーラ―性についてはほとんどお書きになりませんね。

シオランセリーヌによれば、愛とはプードル犬でさえ手にすることのできる無限だということですが、私の知る限り、これが最良の定義ですね。

そしてこう来た。シオランは人間の誕生など、滑稽なこと(性交)が原因にすぎない、みたいなことを言う。して、ここでセリーヌの名前が出てきた。おれが苦しみながら全集を読み切った唯一の作家であるセリーヌ

ラダッツ―セリーヌはご存知ですか?

シオラン―いえ、知りません。

まあ、直接の知り合いではなかったようだが。

 

ヤーコブ―救いとおっしゃいましたね。でもあなたの歴史についての一般的な見解は否定的なものですね。それはデカダンスとしての歴史観ですか?

シオラン―その通りです。私の個人的な考えでは、中国が強国になり、ロシアがその中国を脅威に想うようになってはじめて、西欧は救われます。事態が現在のままなら、西欧はロシアの圧力に屈するおとになるでしょうね。シニックな論理に違いないにしろ、歴史の論理があるとすれば、ロシアはヨーロッパの支配者になるはずですよ。でも歴史には例外がありますからね。ヨーロッパを救うことができるもの、それはアジアの目覚めですね。

「歴史とは列強の連続」というシオラン。その出自とロシア観。さて、果たしてロシアは脆弱な民主主義の西欧を救うことができるのか。そして、中国は脅威になったか。中国は脅威の国になった。しかし、(ロシアから?)ヨーロッパを救うどころか、中国自体が世界を脅かすほど巨大になったようにも思える。さて。

 

ヤーコブ―すでにお話いただいた、あの長期にわたる不眠、その傷口からこの本は噴出したのですね。この状態はいつ克服できたのですか。

シオラン―始まってから七、八年たってからですね。自転車でフランスを走破する旅に出ましてね、それで治りました。数ヶ月にわたってフランスを走りまわり、ユースホステルに泊まり、一日に数百キロ走破するという身体上の努力を重ねて、私は危機を克服することができました。昼間これだけ走れば、夜は眠れますよ。眠らなければ、走りつづけられませんよ。ですから、私の不眠が治ったのは哲学的考察によってではなく、身体上の努力によってですが、同時にそれは私には喜びでした。私はいつも野外に出ました。そして労働者や農民といった素朴な人々と話し合い、フランスを理解したのも野外においてでした。私にはとても豊かな経験でしたね。

最後に、自転車乗りとしてのシオラン。自転車旅については著作でもいくらか記述があったが、かなり乗っている。というか、シオラン、その物言いから内向的で気難しい、孤狼の人のように思われているが、実際のところそうではないな、というのが本書から受ける。いや、実際というと語弊があるが、なんというか、世間的な存在であるシオランは、わりと健康的で社交的な人だな、という。このあたりは、たとえば澁澤龍彦が衒学趣味一辺倒の、自室にこもる人……ではなく、快活でさっぱりと明るい人間だったっぽいところに似ているような気もする。ちなみに、澁澤龍彦の著作で、少なくとも二回ほどシオランの名前に言及しているのは検索で確認できた。盟友とも言える出口裕弘シオランを訳しているし、そうでなくとも澁澤好みの考えの持ち主だったろう。

というわけで、いくらか人となりについて知ったところで、さらにシオランを読み進めよう。今のところ、飽きるところを覚えない。

 

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