「義経」の感想

 寝取られの話からする。前回の感想は個人的な趣味に走りすぎたきらいもあるが、松坂慶子が昼ドラないし「大奥」的タイムに喚いていたから仕方あるまい。そう、今回は女性の嫉妬の話だ。そして、俺は男の寝取られの話ならいくらでもしたいのだけれど、こっちはちょっと苦手だ。それに、どうもやはり昼ドラ的、「キーッ、この泥棒猫!」的連想しかできない。女性の中にも、男を他の女に寝取られ、その内面に渦巻く嫉妬と妄想に快楽を見出す類の人だっているかもしれない。しかし、俺はそんな女に興味は無いし、その女にしても俺などは気持ち悪いだけだろう。
 なんの話をしていたのか。そう、松坂慶子だ。常盤御前をはじめて見たあと、「あの女の中には〜」と独演を始めたわけだ。しかし、なんかこう、セリフが不自然だ。まるで、翻訳なのだ、たぶん。原作の小説にはさらに古典の下敷きがあって、そこらあたりが垣間見られたのかな。古典風に現代とは違ったセリフならいいけれど、それが翻訳風に聞こえてはいけないと思ったのだ。もっとも、そんなことは打ち消すくらいの松坂慶子だ。渡哲也もえらく「渡哲也」なのだが、この松坂慶子もあまりに「松坂慶子」だ。気張りすぎではないのか。
 ところで、こういう心理描写には「当時は側室を持つのは当然だったし、女がそんなことを考えるはずがない」という意見もある。しかし、そんなことは誰にも確かめようがないのだし、風俗や風習、暮らしぶりが違った上に、心理状態まで現代と乖離していたら、ドラマとしてあまりに面白くない。それに、俺は去年、こんなドキュメンタリー番組を見た。それは、一夫多妻の南の島に第二夫人として嫁いだ日本人女性の話。まったく貴族的な世界ではないけれど、やはり現地夫人も松坂慶子のように「キーッ」となっていたのである。人間の心なんて、我々が洞穴に住んでいた頃からそんなに変わりないのではないのか。
 ドラマの話も書いておこう。肝心の牛若役は神木隆之介くん。思わず「くん」付けしてしまったけれど、あれ、もうこんなに大きいのか、という感じ。けど、なんかベテランみたいだな。福原愛ではないけれど、なんかもう人生の渋味や疲れが顔に出ているようだ。いやはや。
 とかなんとか言ってる間に、稲森いずみが蛭子さんに嫁いでしまった。いきなり父親が渡哲也から蛭子よしかず(要確認)に変わったらどうなると思いますか。ぐれて馬にまたがって崖を降り下りたりするのも当然である。これも歴史の妙味なのか。