『明るいクヨクヨ教』東海林さだお

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朝、目がさめた瞬間、
「47×39は?」
と、いきなり訊かれても誰もすぐには答えられないと思う。(ぼくは起きてても答えられないけど)
猫なんかも人間と同じですね。
昼間でも、眠ってる猫を突ついて起こすと、三秒ほどはボンヤリしている。
「2×3は?」
なんて訊いてももちろん答えない。
三秒くらいたってようやく事情をのみこみ、急に真猫になってじゃれだしたりする。

 人間の思考のエンジンは、OSは何かといえば、言葉にほかならないだろう。少なくとも俺はそう思う。「初めに言葉ありき」だ。そして、「我思う、故に我あり」なのだ。少なくとも俺は。そして、その「言葉」について自分に一番の影響を与えたのは誰か。一番と言ってしまうと、両親ということになろう。しかし、それに匹敵するくらい影響を与えたのは、東海林さだおであった。
 東海林さだおを与えられたのは、漢字交じりの文章が読めるようになってすぐだ。父が「文章とはこのように書かれるべきものなのだ」と俺に与えたのだ。読み聞かせられる絵本や童話を脱し、自ら読みはじめた最初の文章が東海林さだおのコラムだった。それが、俺の言葉の根幹に食い込んだのは当然の話だろう。そしてそれは、かなり適切なチョイスだったと言うしかない。それ以後俺は、少なくとも学校の国語や作文に困ることは一切なかったし、入試も小論文一本で仕留めたという手応えがあった。もっともそれは、幼い頃に「東海林さだお」教の洗礼を受けてしまった俺が言うことなのだからあてにはならない。それに、そもそも東海林さだおは実用書なんかじゃない。
 そんな東海林さだおのコラムなのだけれど、気がついたら実家から一冊も持ってきていなかった。そこで急遽購入したのが『明るいクヨクヨ教』なのである。正直、久しぶりに読むものだから昔とは印象が違うかとも思った。が、何のことはない、東海林さだおは抜群に面白い。あれこれ見たり食ったり考えたり。似たような話を見かけたような覚えもあるけれど、それも老人力のなせる芸風に違いない。ついでに言えば、この文庫本は玄侑宗久の解説も面白い。
 かように『明るいクヨクヨ教』にすっかりハマってしまったため、つげ義春の『貧困旅行記』(id:goldhead:20050404#p2)を読んでも(偶然にも「商人宿」の話が出てきた)、田村隆一の『詩人のノート』(id:goldhead:20050404#p1)の軽妙な言いまわしを見ても、そこにショージ君的なものを感じてしまう始末である。こうなると、もっとショージ君の本が読みたくなってきた。検索したら、見やすい著作リストがあった(http://www7.plala.or.jp/marukajiri/chosaku/list.htm)。幼き日の一番のお気に入りは『ショージ君のコラムで一杯』だったっけ。上から三段目くらいまでは、多分全部読んでいる。『平成元年のオードブル』に「ちょっと新しい」という印象があるので、よほど古いものばかり読んでいる子どもったのだろう。平成元年に俺は小学校三年生か四年生だった。けど、そういえば「丸かじり」シリーズはあんまり読んでないな。今度はそちら方面を攻めてみようか。いやはや、読まなきゃいけない本が多すぎて困る。