流れよ我が涙、と俺は言った

『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(ASIN:4166603302

僕は『海辺のカフカ』という小説の中で、猫を残虐に殺す男の話を書いたんです。そうしたら抗議のメールがけっこう来ました。そんな残虐なシーンを書くべきじゃないって。でもね、僕はこれまで小説の中で人を殺すシーンをいくつか書いてきたんです。しかしそれに対する抗議はそんなに来なかった。それは考えてみたら変なことですよね。要するに猫というのは我々人間より弱い者であって、イノセントであって、だからそういうものをいじめるやつがいると、感情的にアプセット(動揺)するし、かわいそうだと。それに比べると、人間というのは自分に脅威を与えかねないものであって、そういうものが殺されることに関しては、特に同情はしないということなのかな。

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最近では新潟の地震のニュース、親子が生きてたり死んでたりした話など。あれらを見聞きしても、自分の胸のあたりはピクリとも反応しない。その一方で、山古志村に取り残された牛や、水を失って死んでいる鯉などを見ると、胸が潰れるような思いになって、目には涙すら浮かべてしまう(年のせいか涙もろくなった)。人がどこで頭を撃ち抜かれて転がされようがなんとも反応しないが、牛や鯉の苦境にはグッときて涙を浮かべる。その落差はなんなんだ?と思う。

 上の方の「僕」は村上春樹。『海辺のカフカ』どころか、村上春樹の新しめの小説を読んでいないので、猫虐待の描写がどの程度のものかは知らない。けれど、上の発言は何やら下の方で俺が俺について感じた疑問について答えているように思える。俺は人間が苦手だし、他人を脅威と思う人間だ。しかも、自分の中のイノセンス讃美の精神にはわりかし寛容な方だということを認めるのにやぶさかではない。猫や牛や鯉の(こう列挙するとプロ野球チームを指す隠語みたいだな)イノセンスは認めても、人にイノセンスを認めがたい、ということだ。それが「落差」なのだった。そう言ってもいいような気がする。
 ただ、自分のイノセンスは認める一方で、他人のイノセンス讃美を見ると鼻白む人間なのだからたちがわるい。翻って、自分を客観視してこれまた鼻白むのだから、間違っても村上先生へ手紙を書いたりはしないし、虐待者を嫌悪してもヒステリックな行動には出ることもない。山古志村の牛が屠殺されて食われる運命でも、それはそれ、で収まるのだ。俺は馬肉以外は特にこだわりなく食べるし、馬を食べないのもゲンかつぎにすぎない。競走馬は人の都合で殺されるけれど、俺は競馬が好きだ。
 そもそも、自分のイノセント讃美精神もよくよくいい加減なものなのも自覚している。実家で猫を二匹飼っていた。もちろん、猫はイノセントな存在だ。しかし、その可愛い猫たちが、家の中に紛れ込んだ哀れなバッタなどをいたぶりはじめると、自分の同情はスッとバッタの方へ移行してしまい、さりとて猫を叩くわけにもいかず、ご機嫌を損ねないように遠ざけたりと、無駄な苦労をしていたものだ。
 さらに病的なのは、虫どころか草や花にまでイノセンスを見出し、ダイワアプセットするということだ。いや、ダイワはいらないけど。けど、ダイワアプセットにはアプセットしたな。何せダイワリプルスの子だったし。いや、それはどうでもいいけれど、虫が草の根を食い荒らせば草に涙し、野の花が摘まれればそれに涙するのだ。ちょっと大袈裟だけれど、例えばハーブを育てても葉を収穫する気になれず、花を咲かせて種を採るところまで行ってしまう。昼休みが終わったからここまで。本当は(滅)の人の里親探しの近況(http://d.hatena.ne.jp/rna/20050407#p1)がアップされていたことについて所謂「上空」に付け足そうとしたらデザインが崩れてどうしようとか思ってて、最近深夜での帰り道でよく猫を見かけることとか、そういう猫の話をしようとしたらよくわからなくなった。今日は朝から寒くて頭も痛くて食欲もないので、昼は何も食べなかった。