聖書の中のエロ

 聖書の中のエロチックなモチーフといえば、最近なにやらあらぬ疑いを掛けられているマグダラのマリアと、サロメだろうか。サロメなどというと、ギュスターヴ・モローの首がピカーッとなってるやつ(『出現』)か、はたまたオーブリ・ビアズリーの白と黒のタッチが思い浮かばれ、頭の中にヴェルヴェット・アンダーグラウンドの'Venus in Furs'(本来は'Femme Fatale'であるべきなのだろうけど、まあとにかくサロメとは関係ないな)が流れてきたりするのだけれど、それよりエロなものも聖書の中にはあった。

この町に一人の罪深い女がいた。イエスファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持ってきて、
後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髮の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
ルカ7-37,38

 涙と髪ですよ。このフェティッシュには参ってしまう。もしも小さな頃にこれに接していたら、女の髪に包まれなきゃ射精できないような人間になっていたかもしれない。いや、そこまでではないか。まあいい、これだけエロなのだから、これもきっと名が知られているだろうと検索したのだ。で、検索して知ったが、これはマグダラのマリアさんだったのだ。
 いや、マグダラのマリアさんとされている、というのが正しいのか。何せ、上に引用した前後にもこの「罪深い女」(=売春婦)の名前は出てこない。しかし、そこら辺が混同されて、マグダラのマリアを描く際には、香油壺がお決まりのセットとなっているということ。まあ、どちらでもいいけれど、俺は別人説を採りたい。こういうのは、名も無き脇役だからこそいいのだ、と。
 しかしなんだ、まだ全部読み終わっていないけれど、イエス様は女にモテる。男どもより、女に慕われ、また、女に優しいという印象を受ける。ここらあたり、流石に千石イエスのオリジナルと言ったところだろうか。そして乞う、信仰篤き者の寛恕。