『死をポケットに入れて』チャールズ・ブコウスキー/中川五郎訳

goldhead2005-08-09

ASIN:4309462189
 「人生の中で五冊だけ本を選べ」と言われたら、そのうちの一つを占めるかもしれない本。それがこの『死をポケットに入れて』(原題"THE CAPTAIN IS OUT TO LUNCH AND THE SAILORS HAVE TAKEN OVER THE SHIP"=船長は昼食に出かけ、船乗りたちが船を乗っ取ってしまった)だ。晩年のブコウスキーがタイプライターをMacintoshに換え、次の一行、次の一行と進んでいく文章の嵐。そう、七十を超えてMacを手に入れる。

タイプライターで書くのは、泥の中を歩いてるようなものだ。コンピューターは、アイス・スケートだ。猛烈な突風だ。

 ブコウスキーは、その歳とは関係なく、自分に合った『思考のエンジン』(ASIN:4791751345)を手に入れた。そして、爆弾マークや猫のおしっこに悩まされながらも、毎晩コンピュータの前に座る。もしもそのときインターネットがあったら、ブコウスキーはブログをやったろうか?
 ところで、Amazonにある紹介文は以下のようになっている。「文学を、人生を、老いと死を語る」。それらについてはここで語るまい。しかし、重要な一言が抜けている、その点については書いておきたい。「競馬」だよ、「競馬」。これと同時期に書かれた傑作『パルプ』(ASIN:4102129138……柴田元幸訳だったか)の探偵みたいに、とにかく競馬に行った話ばかりじゃないか。あるいは、今日は競馬に行かなかった、という書き出しだ。それに、俺はこれだけ示唆に富み、自分の競馬観と一致するものを読んだことがない。だから、ちょっと長いがその一部を引用しておく。

競馬場に集まる人の群れは、仮面をはぎ取られた世界であり、敗北に擦り減らされた人生そのものなのだ。最後に勝つ者など誰一人してなく、わたしたちはただ一時的な猶予、眩しい光から逃れる一瞬を追い求めているだけなのだ。

 もう、まるで寺山修司かと思わせるような文章だ(この直後に自ら「サルトル風」と揶揄しているけれど)。「最後に勝つ者など誰一人としてなく」。まさにそのとおり。ところで、ブクはこの本の中で18%の控除率を何度も嘆くが、日本のそれは平均で25%(http://www.jra.go.jp/faq/a2.html#7)だぜ。よかったら哀れんでくれ。

競馬場に七千人。七千人。わたしには信じられない。スモッグに覆われてシエラ・マドレ山脈が噎び泣いている。馬たちがもはや走らないようなことになれば、空が落ちてくるだろう。平らで、広大で、重い空が落ちて、全てを叩き潰してしまうことだろう。第九レースはグラスウェアが勝ち、九ドルの配当。わたしは十枚買っていた。

 この本が書かれたのは九十年代前半。アメリカの競馬離れを嘆くブコウスキー。その頃は景気の問題もあり、ここらあたり日本の今の地方競馬の現状を重ねずにはいられない。上に引用した七千人という入場者数は、オークツリー競馬場のもの。彼はハリウッドパーク競馬場(池があって、きれいな花たちで飾られ、シーザリオがいたハリウッドパーク!)で場外発売を買っていた。しかし、詩人が主戦場としたそのハリウッドパーク自体に身売り話があるらしい。これでは空が落ちてくるどころでは済まない。

その男はただ競馬場にいたいだけなのだと思う。気がつけば足を運んでいる。たとえ負けっ放しだとしても、彼にとっては何らかの意味があることなのだ。いるべき場所。ひどくばかげた夢。しかしそこはうんざりさせられる場所でもある。不確かな場所。自分だけがものの見方をわかっていると誰もが思っている。愚かな迷えるエゴよ。わたしもその一人だ。わたしにとっては単なる道楽だというだけの話。わたしはそう思う。そうでありたい。

 そう、「自分だけがものの見方をわかってると誰もが思ってる」。もちろん俺もその一人だ。しかし、そんなばかげた場所にだって、ある一瞬はある。上の文に続いて以下の記述。

しかしうんと短い時間の枠の中だけに限定すれば、とても短い、たとえば自分の馬が走って、それから勝利を収めるほんの一瞬。そこには何かがある。何かが起こるのがわかる。気持ちが高揚し、陶醉感に襲われる。馬たちが自分の言いつけどおりにしてくれる時、人生はほとんど会得されうるものとなる。

 馬券を思い通りに当てたときのあの目のくらむような感覚。まるで自分がどこまでも未来を見通せる、全智全能の神になったかのような錯覚。これが無かったら、競馬などやっていられない。

 競馬場でかすりもしない一日。行きの車の中で、わたしは今日はどの必勝法のお世話になろうかじっくりと考える。必勝法は六つか七つ持っている。そしてわたしは明らかに間違ったやり方を選んでしまった。それでもわたしは競馬場で決して自分を見失ったり、正気をなくしたりすることはない。ただそんなに大金を賭けないだけの話だ。長年貧乏生活を送ったことで、わたしはすっかり用心深くなってしまった。勝った日でさえ途方もなく素晴らしい思いを味わうようなことは滅多にない。それでも、わたしは間違ってるより正しい方がいい。

 まず、「必勝」法を六つか七つ持っているという時点でおかしい。おかしいが、正しいのだ。それが競馬だ。そして、それに続く文章。これはまさに俺にも染みついた馬券への態度だ。俺はときどき「途方もなく素晴らしい思い」を味わいたくなることもある。ゼロか百か。しかし、そんな迷いも「間違ってるより正しい方がいい」という言葉で吹き飛ばしてしまおう。
 
 さて、最後は競馬の美しい光景がパッと広がるような文章を引いておこう。

わたしは誰と競い合ってるわけでもないし、不朽の名声に思いを巡らしたくもない。そんなものはくそくらえだ。生きてる間に何をするかが問題なのだ。太陽の光が燦々と降りそそぐ中、ゲートがぱっと開かれ、馬たちが光の中を疾走し、所属の厩舎の派手な色の服と帽子を纏った小さくて勇敢な悪魔たち、すなわち騎手たちは、誰もが勝利をめざし、見事に自分のものにする。行動と挑戦の中に栄光はあるのだ。死などどうだっていい。大切なのは今日、今日、今日なのだ。まさに然り。