『空海の風景』司馬遼太郎―その2

その2(id:goldhead:20050918#p2の続き)
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最澄(続き)
やや行きすぎのところがあったと言ってもよく、筆者はこうも書く。

真言宗の学匠でさえ、最澄との関係における空海の態度を十分に語ることにひるみを覚えてきたような気味があり、両人をもし舞台にあげる場合、観客席のおおかたの感情は最澄を善玉とし空海を悪玉とする気分からまぬがれることはできない。

これは空海が日本には珍しい、自らの理論に忠実な思想家であったということでもあるという。

◆宗派・教団
三冊読んだ空海絡みの本で、それぞれの理由からその後の真言宗についての記述は多くない。司馬遼太郎によると、空海が完璧な理論体系を組み上げてしまったが故に、真言宗にその後大きな論理における発展はなかった。一方、体系を組み上げることなく最澄が世を去った天台宗の方が後に幾人も思想家を生んだということである。そして、その後の真言宗の名として松岡正剛と司馬遼が挙げていたのは、覚鑁(かくばん)であった。しかし、この名も仏教無縁の俺などからすると、初めて見る名であった。
空海の死
高野山奥の院の御廟では、今なお入定(入滅ではない)した空海が黙禅と坐していると信じられている。‘黄衣の人’が朝晩の食事と衣服の世話をし、その役割の人は他の僧にも家族にも廟の中がどうなっているのかは一切語らないという。しかし、司馬遼太郎は遠巻きに、実に慎重にこの件について(あるいは全編を通して言えることだが)、「空海は人として普通に死んだ」と述べ、また文献から荼毘に付されたと書く。司馬遼太郎空海観からは、それがふさわしい最期であると見ているようだ。そういえば、千年以上も山中にあってミイラとして念仏を唱え続ける僧の伝説というのに聞き覚えがあったが、これはここから派生した伝説の一つであったかもしれない。ミイラというのは、死の前に五穀断ちをしたというあたりから来ているのだろうか。空海は自らの死も演出(筆者は「けれん」の語を用いた)とも言えるだろう。

◆この本
この本は妙な本だ。小説と呼んでいいかどうかわからなくなる。司馬遼太郎といえば、山田風太郎にもひけを取らないほど大胆なフィクションを盛り込む作家でもあるが、この本では違う。違うどころか、歴史小説の一歩手前で描いているのだ。文中ところどころに「小説的に表現するならば」とか「ここまでが想像である」などと、しっかりと線引きがなされている。陳舜臣の『曼陀羅の人』の上巻に、「断章」なる章があった。それは、地の作者が出てきて、フィクションと実際の記録の違いなどについて説明するものだった。この本においては、全編がその「断章」なのである(ちなみに言えば、陳舜臣はたびたび断章を入れるつもりと書きながら、結局断章は最初の一つであり、あとはフィクションの世界に完全に流れていった。俺としては、いくつか「断章」を挟んで貰ったほうがよかったように思う)。しかし、しかしだ。これが小説でなく評論や紀行でないこともあきらかだ。そこがとても不思議で妙だ。読み終えたのちにこの『空海の風景』を思い返せば、そこに現れるのは文献の検証でも理論の解説でもなく、空海がさまよった山中であり、絢爛の都長安であり、平安の日本のなのだ。それはもう、小説と呼ぶしかない。司馬遼太郎はつくづく巨大な作家である。