セブンスデー・アドベンチスト教会は人類の不幸について考えるか?

 通勤路に教会の看板があって俺にある朝一つの疑問を生じさせたのは土曜(安息日)礼拝の文字であった。俺のつたないキリスト教の知識によれば安息日は日曜日であって土曜日は別に土曜日なのではなかったか。しかし安息日といえば安息の日ではあるが安息日に安息しないで麦の穂などを拾っているの見てケシカランと言ったりすると、

 もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
 人の子は安息日の主なのである。
(マタイ12-7,8)

 とイエス様におしかりを受けてしまう安息日は日曜日なのではなかったか。俺は看板に書かれた‘セブンスデー・アドベンチスト’と検索窓に打ち込んで俺は謎を解こうとしたらウィキペディアなどがわかりやすく説明していてくれたところによるとこの教会は4世紀から認められるようになった日曜礼拝からそれ以前に立ち帰ろうとしたということなのであるらしいのであった。
 またウィキペディア安息日の教えを乞うと「あんそくび」ではなく「あんそくじつ」「あんそくにち」と読むということで大変おどろきつつも、すなわち安息日はもともと日曜から仕事を始めた神様が休んだ七日目は土曜日なのであったがさまざまな事情もあって復活の日曜日を主の日として休むようになったとかいう話なのである。それをケシカランとしたのがセブンスデー・バプテスト派でありその影響を受けたセブンスデー・アドベンチストなのであった。
 また、このアドベンチストは決して淫祠邪教異端審問の宗派でなく新しめのアメリカ産まれではあるが正統のキリスト教会と考えられているらしいのであった。しかしまあ私たちはカトリックプロテスタントと正教の区別もなく「キリスト教」などと一言で言うことが多いように思えるが、この細かく色々と細分化したあたりのことにも思いを巡らせた上で一つの傾向を見出すべきなのかも知れないと言えるかもしれないが、その諸要素と総体の関係をどう捉えるべきかと考えると何も言えなくなってしまうのであった。
 とにかく私が七日目の話をするのならば、田村隆一の詩の話をしたいと思う。

神は
たった六日間で
ぼくらの世界を創ってしまったというのだから居心地の悪いのも無理はない
おまけに気まぐれで神経質な神は
七日目にその手を休めてしまったのだから
かわりにぼくたちは働かなければならないのさ

で始まり

神が手を休めたおかげで
ぼくらは一日中働かねばならぬ おお 涙の涸れるまで
類を薔薇色に輝かせて
人類の悲惨について考えよ

で終わる詩*1のことさ。

 なお、伏して乞う信仰篤き者の寛恕。

*1:「頬を薔薇色に輝かせて ニューヨークの六日間」