『悪魔礼拝』種村季弘 その1

goldhead2006-01-12

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 去年の夏に俺は聖書に関する本を古本屋に求め、なぜか『空海の夢』を手にすることになった(id:goldhead:20050811#p2)。そのとき俺が漠然と求めていた「聖書に関する本」とは、悪魔について書かれた本だった。聖書を眺めていて思ったのだ、「悪魔はどこにいる?」と。我々が幼いころから漫画・アニメ・ゲームを通じて接してきた、名前のついた悪魔たちは、どこで。

■サタンと太母神

一、神の敵対者であるサタンはキリスト教独特の神の反像である。それゆえにまた、悪魔主義キリスト教的伝統と切っても切れない関係がある。
一、キリスト教出現以前、教会以前(おそらく以後も)の時代と空間には、悪魔主義は存在しなかったし、いまも存在していない。

 だからこそ、聖書にはまだ悪魔は出てこないのだ。悪魔礼拝は「厳密にキリスト教的な倒錯」であり、「悪魔学(デモノロギア)はそもそもが体制の学問」であり、「キリスト教の拡張するぶんだけ、敗者サタンの影の王国は拡張された」という経過があったのだ。キリスト教が確固して存在せねば、(キリスト教的な)悪魔も存在できない。これが多神教ならば、神様の数が増えていくところだが、そうはいかないのが一神教というところかしらん。で、悪魔の中、後の異端主義の中に、キリスト教以前の信仰の姿が見られるというわけだ。
 

■蛇と世界創造神

 フィリップ・K・ディックの『ヴァリス』や『聖なる侵入』。もうちょっとグノーシス派について知っていれば、さらに深く読めただろうか。いや、いずれにせよ一夜漬けにもならないような知識しか維持できないのだから、順番はどうでもいいか。

 息子(下位の天使)が母なる天上の光明を妬んで地上に引きずり降ろし、肉体や物質のなかに封じ込めたために、彼女は売春や物質的汚染に苦しまなければならなかった。グノーシス教徒の使命は肉体と物質に囚われた彼女を解放することにあったので、これ以上肉体や物質を増殖して光明の分散を促進することはつつしまなくてはならない。

 飲食や性行為は外見上の快楽主義の背後にあって宿敵を欺く、神聖詐術の苛烈な戦闘の一貫にほかならなかった。

 なんと、クリスマスの聖夜に子孫繁栄以外の快楽に浸る我が国の若人たちは、潜在的グノーシス主義者だったのか。精液やセックスは子孫を作るためにあってはならない。それは「被造物を宰領する支配者(アルコン)の王国」(ディックの言う‘帝国’かな)を拡大させるだけだから、と。そういった風潮をローマ法王が批判(http://www.cnn.co.jp/world/CNN200512120015.html)するのも当然なのであった。

■悪魔の芸術

 「舞踏のあるところには悪魔も居合わせている」

 キリスト教も当初は舞踏の宗教であったという。しかし、外敵たる諸宗教がさらに強烈な踊る宗教だったため、それらとのエクスタシー競争に敗れたり、混淆したりしてはならんと、礼拝と歌唱の宗教になったという。そうか、リオのカーニバルなどはどうみてもカトリックの祭礼には見えないが、ああいうのをおそれたのだろうな。もっとも、完全にキリスト教社会から舞踏が一掃されたかというとそうでもなく、カーニヴァルや演劇の中に姿を現せていたという。
 それに、時として民衆の間に、突発的に異端的な舞踏が流行する。その一つが「死の舞踏」(ダンス・マカーブル)。これについては、澁澤龍彦が「六道の辻」で日本を舞台に翻案していた(id:goldhead:20051014#p3)っけな。我が国でいえば、「ええじゃないか」とかもそういったものの一つだろう。
 続きはいずれ。