『西遊記』(第二回)

 先週(id:goldhead:20060110#p2)から始まった『西遊記』だが、月曜の九時の俺はテレビの前にいなかった。すっかり忘れていたのだ。しかし、早足で帰ればいくらか見られる時間だった。俺は早足で帰った。「あの男は『西遊記』を見るために早足なのではないか」と思われるくらいの早足だったと思う。そのくらいの早足だったと思うが、走るほどでもないのも事実なのであった。
 香取慎吾及川光博に大見得を切るシーンだった。それまでの話は当然知らない。しかし。ミッチーを見れば、だいたいどういうキャラかは見当が付くものだ(というか、この手の役が似合いすぎる)。というか、ここからしか見ていない俺だけれど、伏線というか、大まかな線は回収できたような気になって、それで結構楽しめてしまったわけである。
 たとえば、ラストの方の風呂の何かだって、だいたいどんなのかは想像がつくわけだ。それに、邪眼という武器だって、それこそさんざん漫画・アニメ・ゲームでおなじみのギミックだ。さらに、光を消して(ろうそく数本ですごい光量ではあるが)同じ条件だ、とか。目隠して戦う(男塾だったら眼を潰すところ)のもありがちだ。さらに繰り広げられたのは、北野武が『座頭市』でやったようなコント。……などと書くと、ありがちさを責めているように見えるかもしれないが、それは逆だ。むしろ、『西遊記』というナラティブ・マザー(id:goldhead:20060111#p3)において繰り広げられる、さまざまなステレオタイプに俺は安心して楽しめる。その密度に満足する。そこが人間心理の持つ物語のアーキタイプに呼応しているせいかどうかとかまでは知らないけど。
 というわけで、案外ストーリーの導入部をまどろっこしく思う癖のある俺には、昨夜もけっこう楽しめたのだった。……が、一つ注文をつけたい。今さら豚が豚というより猿に見えるとは言わない。その豚のかつての姿であるチビノリダーを思わせる全体のちゃちな感じ、これはどうにかならないか。いや、コント的なものだし、コント的でいいし、連続ドラマにしてはセットも金かけてるように見える(連続ドラマの予算やセット代など知ってるわけでもないが)。何かこう、不自然さがあるのだ。
 そして俺は気づいた、衣装がいけないのではないか、と。衣装のデザインじゃない、衣装がぴかぴかきれいすぎることだ。奇しくも香取君のスマステで見た話だったと思う(太田光がゲストだったときか?)が、かの黒澤明は『七人の侍』を撮影するにあたって、百姓の衣装を土に埋めて汚れを演出したという。さらに、それを実際に着て生活させて、生地のすり減り具合を出させたというのだ。
 いや、何も俺はそこまでしろとは言わない。しかし、一応設定は天竺を目指して山や砂漠を旅してるんだから、ちいとぴかぴかすぎるのはどうか、みたいな。まあ、別にそれをなおしたところで急にリアルになるわけでもねえだろが。リアル、である必要もないわけか。むしろ、コントや戦隊物みたいに割り切って見るべきか。俺はかつて放送されたという『西遊記』のドラマを知らないがゆえに、ここらあたりの勘所がつかめないのである。