流れよ我が涙、とイスカリオテのユダは言った

 ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。
使徒言行録1-18)

 というわけで、はらわたがみな出てしまったユダさんについてのニュース(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060407-00000301-yom-socihttp://www.sankei.co.jp/news/060407/bun070.htm、)です。なんと、彼とイエス様のやり取りは、すべて事前のブック通りというのです。ブッカーは果たして誰でしょうか。イエス様自身とも取れますし、他の誰かさんかもしれません。
 しかし、このニュースに何か目新しさを感じないのはなぜでしょうか。いや、当たり前のことかもしれません。同じキリスト教でいえば、グノーシスにおける蛇。こういった逆の見方、裏側の見方、そういったものはあまりにあふれていて、それがときに正逆逆転したりしながら歴史が紡がれてきたのでしょう。
 さて、このユダの福音書はどういう扱いを受けるのでしょうか。「新約聖書外伝」みたいな感じでしょうか、ナグ・ハマディ文書のように。それにしても聖書世界は飽きさせない。やはりその時代にはよほど優秀なブッカーがいて、その後の歴史のあらゆるアングルやギミックを設定してしまったのではないかと思えるほどです。われわれには、この地球終幕のその日まで、何がガチで何がヤオかなど見抜く術はないのかもしれません。
 なお、またいい加減な事を書きました。冀うキリスト者の寛恕。

追記:http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20060407 下にコメントをいただき、リンク先の考察を拝読いたしましたら、ボルヘスの名が出てきました。あいにく手元に『伝奇集』はなかったのですが、『砂の本』(id:goldhead:20050120#p3)がありましたのでパラパラめくっていますと、「三十派」という短編が収録されていました。

 事件はすべからく忘れがたいものでなければならぬ。ひとりの人間の、剣による死、あるいは毒人参による死くらいでは、この世の終わりまで人類の想像力を刺戟するには十分ではない。神は、事件を、悲愴にしつらえた。最後の晩餐も、裏切りを予言するイエスの言葉も、……

はっきりと自覚していた役者はただ二人――キリストとユダである。後者は、魂の救いの代償である三十枚の銀貨をなげうち、直ちに首をくくった。このとき、彼は「人の子」と同じく三十三歳であった。その教派は、両者をひとしく崇め、他のすべての者を赦す。罪あるものはひとりもいない。知る、知らざるを問わず、神慮にもとづく計画の遂行者でない者はいなかったのである。思えば、すべての者が、栄光を分かち合っているのだ。

 「その教派」は、例によってボルヘスが図書館の片隅で見つけた書物の……というやつ。自らのあとがきでは「ありうべき異端の歴史を再生させたものだが、これを裏づける記録は皆無である」と。あるいは、今回のユダの福音書が「裏づける記録」なのやもしれません。あまりにできすぎた一致と言えるかもしれません。いずれにせよ、「起源の物語をめぐる反復の構造そのものが起源である」(id:goldhead:20060111#p3)とでも言うべきなのか、ユダをめぐる物語とその解釈も、キリスト教の範囲を超え、我々人間の持つ原罪ならぬ何らかのアーキタイプをゆさぶる類のものなのでしょう。