『盤珪禅師語録』鈴木大拙編校

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 このところの読書というと、数冊の仏教がらみの本の買ってあるのを、寝るときはこれ、坐っているときは、そこらに転がっているあれこれと、つまみ読みする習慣になっている。そんな本を買い込むのはネット経由が多く、手にしてみて「しまった」と思うものもあって、この本なども鈴木大拙の名があるので、てっきり解説付きかと思いきや、あくまで編集校正のようであって、正字体、正仮名遣いの直球勝負で、字の方はなんとかなりもしないでもないけれども、古文をそのまま読むのは受験以来であって、河合塾の菊池の古文の貴重なプリント類を失った今はたして読めるのかどうか。

 と、思ったら、これは読めそうだ。1600年代のものといえども、話し言葉だ。それに、登場人物がいろいろ出てくるお話でもなく(古文のむつかしいところは、主語明記なく一文中にころころ主体が変わるところだと思う)、説法という方向性があるし、文庫数冊分の仏教用語の教科書的知識くらいはある。

 などと言ったところで、読んだのは番号「一」、ページにして4ページ程度。しかし、このトップバッターがすごいんで、もうこれはよいよいということになってしまった。

 ある僧が禅師に相談する。

それがしは生れ附て、平生短氣にござりまして、師匠もひたものいけんを致されますけれど、なをりませず。

 めんどくさいな、適当に現代語訳してやれ(とかいいつつ「ひたものいけんを」ってなんだ?)。まあ、生まれつき短気で困ってるとある僧が禅師に相談する。禅師は、「おもしろいものを生まれついたな。今も短気なら、今ここに出してみなさい。治してやろう」という(一休さんの屏風の虎みていだな)。僧は「今はありません、なにかしたときに、ひょっと出てくるのです」と答える(ここでいきなり僧がぶち切れて禅師に怒鳴ったり殴りかかったりしたら面白かったのに)。で、禅師はこう言うわけだ。

 然からばたん氣は生れ附ではござらぬ。何とぞしたときの縁に依て、ひょつとそなたが出かすわひの。

 そう、何かあったりすれば出て、なければ出ないようなもんは生まれつきでもなんでもない。単なる縁によるものだ。親のせいにするな。親が生みつけるものは仏心一つで、よけいなものは後付けだ、六根の縁に対して向かってくるものに対して、反応的な我が身のひいきゆえに出てくるものだ。

一切の迷ひは皆身のひいきゆへに、迷ひますわひの。身のひいきせぬに、迷ひは出來はしませぬわひの。

 どこで読んだが忘れたが、動詞は動詞そのものではありえない。私が歩くのであって、歩くだけを取り出すことはできない。逆に歩くも誰かが歩かねばありえない、とかなんとか(だったかな?)。短気に限らず、あらゆる迷いも一緒。迷う我が身びいきの我がなければ迷いもない。で、その我というのは生まれつきの本質のようなものでなしに、単なる縁の仮の結合にすぎない。そういうことを、上の話はなんともわかりやすく教えてくれてるんじゃないだろうか。まったく違うかも知れないが。
 えーと、じゃあたとえば自己嫌悪なんていうのは、俺なども我が身のいたらなさを倍掛けにするようなもので、あるいは多くの人の辛いところ。だけれども、嫌悪する対象であるところの自己をすぱっと切り離して皿の上に置いてさあ嫌悪しようというわけにはいかず、嫌悪する主体であるところの自己は嫌悪と決して切り離せず、じゃあその自己の方はなんじゃらと考えれば、あるように見えて無に過ぎない。その無我をさとれば、嫌悪も消えよう、迷いも消えよう。そういうことだろうか。

 でも、そんなに無、無だと世も法も安心もない。そこで「不生の佛心ひとつ」、「常住不生の佛心ひとつ」というのがキーワードになってくるのだろう。無我のところにあるなにか。無のところのなにかというもんだろうか。でも、それって世の禅僧が殴ったり殴られたり、腕ぶった切ったり指詰めたりしながらたどり着いたりするところ。そいじゃあ凡夫無理だ。あるいは、そういうところを「じりきもなし、たりきもなし、ただいちめんのたりきなり」のところの他力本願のなむあみだぶつかアーメンか。知っておもしろく興味深いが、体験に行くのは難しい。童貞のセックスと一緒か。
 で、だいたいそもそも、不生ってなんだ、不生禅ってなんだ。「生まれついてではない」ってことでいいのか。この禅師は「三十日間やってみれば」と、なにやらダイエット法の効果をうたうようなことをいう。どういうこっちゃ。続きも読むか。