あんときの古舘はどこへ行ったのか?

goldhead2007-06-15

 買っても、読んでもいませんけれど、最近、週刊新潮が面白い見出しをつけていました。
http://www.excite.co.jp/News/magazine/MAG5/20070607/24/

腹話術の人形みたいに空虚な古舘伊知郎研究

 まさに、まさに。このところの古舘伊知郎あまりにも空虚で、声を出すの精一杯のでくの坊という印象です。私は最近、報道ステーションをよく「聞く」ようになって、実にそう思っていたのです。
 「聞く」というのは、テレビ画面をゲームにして、ポケットラジオで音声だけ聞くということです。報道番組なんてのはたいていこれで事足りますし、あるいはおおよその番組はこれで事足りるようにも思えます。
 それはそうと、映像を省くと、声だけがはっきりとシンプルに入ってきます。発言がよく残るような気がするのです。そして、古舘伊知郎の発言といえば、スタッフが数種類のサンプリングを再生しているのではないかというくらい、内容の薄いもの。曰く「人の心がおかしくなっている」、「自然環境がおかしくなっている」。もう、この二種類くらい。とくに後者がひどくて、ありとあらゆる自然現象が、環境破壊によってもたらされた人災のよう。こういった古舘の話を聞いていると、いったいわれわれはどれだけ暗い世界に住んでいるのかと思わされます。でも、内容はありません。
 私にとって古舘伊知郎との出会いは、プロレスではなくF1でした。小学五年生か六年生か。週刊少年ジャンプマクラーレンのノーズに「ジャンプ」と貼りつけたころ。あのときのブーム。むろん、それまでのF1史も知らなければ、古舘伊知郎の経歴も知らない。ただ、とにかく古舘伊知郎が実況するF1が、そのときのF1のすべてでした。それは、私を虜にするのに十分でした。「振り返ればブーツェン」、「壊し屋チェザリス」、「性の狩人ネルソン・ピケ」……などなど、もっと複雑で面白いものもあったでしょうが、ともかく簡単なキャッチフレーズが、いかにその世界へのとっかかりとなったことか。
 今になって思えば、それまでのF1ファンが激怒し、嫌悪したことも理解できます。たとえば今後、古舘が競馬実況を手がけたとして、そこで競馬知識の基本的な欠如を見せたり、ファンを納得させられない比喩を使われたり、そもそも競馬実況として成り立っていなければ、やっぱり愛想を尽かされるでしょう。しかし、F1の入り口として彼はよかった。今となってはあまりF1を見ていない(モナコは見て熱くなったが、次のもっと熱いのは見逃した!)私ですが、そう思えます。
 というわけで、今の古館は見るに忍びず、聞くに耐えない……わけです。わけですが、それでもなんとなく報ステを視聴するのは、ともかくニュースならいいというのと、なんとなく今の古舘のワンパターン・リアクションが、だんだん芸のように思えてきたことにもあります。もちろん、笑えはしません。ただ「ああ、やっぱりこう言ったよ。言うと思ってたよ。ああ、暗い、暗い」と暗くなるわけです。そんなニュースがあったっていいじゃないですか。どう思います、加藤さん?