差別心とわたくし

 差別心というのは、ほとんどの人の心の中に存在するものだろうと思います。中には自他不二の境地を得るなどして、菩薩の行におられる方もありましょうが、おおよその凡夫、「あいつは俺より上か、下か」の迷いに煩わされ続けるものでありましょう。
 しかし、だからといって「人類から差別は無くならないんだよ」とニヒリズムに陥ることもありません。むしろ、人々の中から差別心が去りがたいものゆえに、つまらない誤解を解く教育ですとか、社会の制度、システムを整備して、内なる差別心を現実に表明したり、行使したさいのペナルティを用意するですとか、そういったことがらが必要になのではないでしょうか。人の内心、内面などはにわかには変えがたく、また、たとい目的が崇高であれ、内心まである方向に洗脳統一するようなことになりましては、おおよそ人間の地獄ではありませんか。心が変えがたくとも、行いは御せる。もちろん、行き過ぎがあってはならぬことではありますけれども、本音と建て前、ノンフィクションとフィクション、それをそれと認めて、それを露わにせずの態度で、社会は回っていくところもあるのではないでしょうか。しかし、それらが乖離しすぎて実態を失ったり、あるいは人間内心の悪い部分が反映しすぎれば、社会は崩れていく。その距離感の保ち方は、人類永遠の課題なのやもしれません。
 一方で、私の内心の問題は私永遠の課題であると言えましょうか。教育や何かで教えられても、それを字面のみならず、我がこととするのは、大変の一致が要求されることです。少なくとも私は、たとえば社会常識上において差別的な言動は多いに慎んでおり、外目から私の内心は窺いにくいように生きています。では、そこに外面と内面の大変な差があって、無理が生じているのかといえば、それほどの差異はないと言えましょう。
 しかしながら、やはりついつい外面まで飛び出てしまう差別心もあります。自分の中のかなり覆しがたい部分、色眼鏡どころか、カラーコンタクト、あるいは眼球への刺青、そんなものとも言えましょうか。それは、何かと申しますと、次の記事から露わになるところです。

地域ブランド調査2007」結果速報
http://www.tiiki.jp/about/news_release/2007_07_23.html

 私は1位の札幌市に生まれ、7位の鎌倉市に育ち、3位の横浜市に暮らしています。そう、私のみにくい差別心は、地域差別、地方差別。これがいかんともしがたいほど強いのです。その強さというのは、たとえば匿名掲示板などで「やっぱり××(地域名)人はクズだな!」とか書き込んでしまうような、アクティブなものではありません。また、逆に「横浜最高!」というものでもありません。ただ、心の中に確固たる序列がある。動かしがたく「□□□は鎌倉、横浜よりださい」というイメージがある。人生に選択肢などほとんど残されていない身ながら「○○には住みたくねーな、絶対」という思いが出てくる。別に、そこに住むひとびとのどこが嫌だとか、そんなものはありません(ただ、辛辣なジョークがつい、ポロッと出てしまう)。しかし、無いがゆえに、いかんともしがたい。どうしていいかわからない。
 解決策は確実にあります。私がそれらの地に住む。それに尽きます。地域ブランド最下位の土地に住んで、我が事とする。住めば都、私の鎌倉や横浜であまりろくな人生イベントは起きていませんが、愛着はある。そういうものに違いありません。
 まあ、そんな鎌倉、横浜だって、それぞれ藤沢市との際であったり、寿町すぐそこだったり、それがイメージされるメーンの場所ではありません。鎌倉山の住人からしてみたら、津西の人間が鎌倉顔するのは面白くないでしょうし、古くからの谷戸の住人から見れば、鎌倉山とて新参者に過ぎない。いつまでもフラクタルに続く序列のピラミッドといったところでしょうか。しかし、それゆえに自分の居場所、自分の序列が意識される。ときにそれは能力や努力によって得られる部分もありますが、それとは関係ない場合もある。努力や能力のない人間は、関係ないそれをよすがにすることもあるでしょう。また、努力や能力もまた、偶然持って生まれたものに過ぎないと空じていけば、また何か新しい地平にひとり立ちすることができるかもしれません。まあ、しかし、それでもさいた……■■■■ってところですけれども。