アジアカップ 日本対サウジアラビア

http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/live/jpn_20070725_01.htm
 はじめに断っておくが、『フィールドの向こうに人生が見える』asin:4797671084を読み終えたばかりの俺だ。即席オシム信者。こないだのオーストラリア戦のPKの前、ロッカールームにひっこむオシムの後ろ姿を見て、「ああ、オシム語録買わなきゃ」と思ったのだ。語録ではなかったけれどね。
 それでもう、頭のよさそうな人の発言にはコロッといってしまう俺なので、「オシムが日本代表の監督になっているなんて、なんという幸運だ!」くらいのもの。そういえば、就任直後のマスコミの持ち上げっぷりもそんなんだったな。でも、この本あたり一冊読んだら、そうなってしまうのもむべなるかな。それにまあ、客観的な実績としても、それくらいのもの……なのかな、と。
 で、昨日の試合など見ていてどう思ったか。信者なので、わざと負ける……ことはないが、負けるかもしれないように戦ったのではないか、とか思ってしまうので困る。ワールドカップでわざと負けるようなメンバーを選んだ故事などから、そう思ってしまう。誰だか分からないが、たとえば中村俊輔などを切り捨てるためのアッピールだったのかな、とか。それで、オシムがかつて民族主義と戦ったように、今は日本のコマーシャリズムと戦ってるんだ! とか言いたくなってくる。困る。ああ、俺に昨日の中村俊がよかったかどうかなんてわかりません。たとえば、ということで。「エクストラキッカー」はたくさんいらないが、一人も必要ないとは言ってないし。でも、交代あたりを見ていると、「メディアの皆さんは日本が優勝して当然と考えているようだが、ご覧の通り層が厚くはない」というメッセージじゃないかなとか、なんとか思ったり。即席汁状態なので。
 メッセージといえば、羽生直剛、これが交代で出てきて、ミドルぶっ放してバーを叩いたの、あれはよかったな。なんかもっと、ガンガン打っていけ、勝負しろってメッセージに思えた。まあ、外野の、それも門外漢の戲言だが、もっと勝負してよって思うシーンが多かった。というか、日本はいつもそう思う。「一発必中の砲は、百発一中の〜」の帝国海軍精神でも引き継いでいるのだろうか。シュートなんて一発必中ってわけにはいかないんだから、「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」精神、だと行き過ぎかもしれないが、とか思ったりするな。
 そうだ、『オシムの言葉』読んで、多少意外に思ったのは、オシムがあえてリスクを取る、尊ぶタイプだということだった。見た目は慎重そうだが、リスクをおかしたところに、お客さんも喜ぶところがあるという。けっこう攻撃的なのだなあ、と。そういう意味で、今回の得失点は、そういう方向ということなのかもしれない。ただ、一対一でもうちょっとどうにかならないかとかは、代表監督に求めるものなのかどうかわからない。
 とはいえ、抜群の記憶力と選手を見る目のすごさ、代表で階を重ねていくうちに、良くなっていくのかもしれない。とはいえ、なんか負けるとすぐにマスコミは批判する。たとえば今朝のとくダネ!。たかがワイドショーではあるし、サッカーを知らない俺が、少なくとも俺よりサッカーの詳しい人に何を言えるのかと思うが、しかし、やっぱり松木安太郎の批判は陳腐ではなかったか。精神論と難癖。「選手は言葉の意味がまったくわかっていない」、「日本人監督じゃなければダメだ」だって。じゃあ、ジェフの選手はオシムの母国語に精通していたのか、躍進とオシム就任に因果関係はなかったのか、と。ジェフの試合も見たことありませんけれども。
 というわけで、二年遅れくらいで、まあオシムの言葉ファンになったりした俺。というか、会見の記事とかは面白くて好きだったしな。ああ、あと、昨日は放送されなかったけど、試合後のインタビューどうにかなんねえのかね。これはもう、オシムとかに限った話じゃあないが、「見事な勝利でしたね」、「次に向けて一言お願いします」って、もう、相手が野球だろうと、相撲だろうと、なんでも共通する能なしの丸投げばかり。俺はサッカーについて知らないだけに、サッカーの話を、その試合の話を振ってもらいたい。やり返されて恥じかかされるのが怖いのかもしれないが、今の状況も大恥には変わらないから(……長いプロ野球との緊張感のなさが、マスコミをこうしてしまったのだろうか?)。
 最後に、この本で一番よかった言葉。

「無数にあるシステムそれ自体を語ることに、いったいどんな意味があるというのか。大切なことは、まずどういう選手がいるか把握すること。システムが人間の上に君臨することは許されないのだ」

 システムが人間の上に君臨することは許されない。サッカーに限ったことではない。人は法のしもべではなく、法が人のしもべである。その他いろいろ。エンツェンスベルガーもそんなこと言ってたような気がする。イエスパリサイ派に喧嘩売ったときに言ったかもしれない。違うかもしれない。
 しかし、オシムにはキリスト教よりも禅の雰囲気がある。会見の対話のやりとりなども、禅機に満ちているように見える。閃電光、撃石火の切り返し。しかし、言ってることは当たり前のことばかり。ときにはいわゆる‘禅問答’的なはぐらかし。選手に対して決まった育成法などなく、それぞれの個性や状況に合わせて、なんてのも、対機説法かって感じだ。それで、まず人ありき、お前ありきの考え方。お前がお前のことを考えろ、と。生まれた時代と場所が違えば、名のある禅匠になったんじゃねえかって、ほとんど確信できる。が、たぶんいつの時代に生まれようが、サッカー一色なのかもだろうな、きっと(←ひどい文末かもだ。しっかりせにゃ)。