茶の道はローマに通じるか?

 鈴木大拙の『禅と日本文化』の「禅と茶道」に次のような記述。

……英訳して一般に“tea-ceremony”または“tea-cult”と知られるものにした。

 tea-ceremony、tea-cult。うーん、しっくりこない。しっくりこないからこそ、大拙先生も「英訳して一般に」と書かれているのだろうか(逆輸入の本書、原文ではsadoで通しているのかもしれない)。いや、俺は茶道のことなんて本でしか知らないし、幼稚園でまねごとをした程度。それに英単語のニュアンスを正しく把捉しているかどうかもあやしいんだけれども。
 まず、カルトってのはどうにもな。本書は1940年のもので、現代でよく使われる、新興宗教を指してのニュアンスは無かったのかもしれないが。儀式、礼拝としても、なんだかな。さらにはセレモニー。これもどうも。儀式、形式、転じて堅苦しさ。いや、そりゃ茶道は儀式的、形式的で、堅苦しい。けれども、「本当は堅苦しくないものなんですよ」ってオチがついてくるのも日本人の多くは知っているはず(美味しんぼでも読めばいい)。で、たしかに見た目はそうで、おそらくやってみてもそうなんだろうけれども(オチの境地にはたどり着きがたいものだろう)、かといって、本質ではないところで名付けられてしまうのはどうなのか。じゃあ、茶道関係者はどうしているのだろう。
http://www.urasenke.org/
 裏千家オルグときたもんだ。おお、CHANOYU言うとるやんけ。やっぱり、訳せざるものってのはあるよな。あと、HISTORYんとこ見たら、「Sen Rikyu and The Way of Tea」なんて書いてある。the way of teaなんていうと、なんか茶の輸送に用いられルートみたいな感じもするけど、セレモニーやカルトよりゃ、ニュアンスはそっちでよくねえかって気もするな。ほかの支所(?)では「Chado」のままだったりするし、まあ、そっちがいいってことだな、たぶん。でも、まあ、呼び名と中身の関係というのも、一概に、あれ、で、茶道なら茶道なのかと言うと、またわからんし。わからんな。考えるとのどかわきますね、喫茶去、喫茶去。