相撲その他の悪霊について

http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/sumo/news/20070920-OHT1T00082.htm

 事件は豪栄道が最後の塩を取りに行った瞬間に発生した。正面と西の間の通路から、40代と見られる女性が接近。「福山雅治=悪霊に取りつかれている」などと意味不明な文章が書かれた大量のビラを抱え、「やめて下さい! 親方! 親方!」と奇声を発し、女性警備員の制止を振り切って土俵へ向かった。

 ……脳内で「ギャワー」とか「じゃよー」とかの言葉が浮かんで、ある帝国から優れた何かを感じたけれど、それはまあ関係ない。福山クンは大丈夫じゃろか?
 さて、大相撲のナオン禁制もとい女人禁制が破られた、と。見出しだけ見たら、どっかの強硬派フェミニズム団体の刺客か何かと思い浮かべてしまうように、相撲にとっては敏感なあたりだし、だからこそ単なる乱入以上のニュース(スポーツ紙一面)になっているのだろう。
 大相撲は女人禁制であるべきかどうか? 禁制でもいいんじゃね、と俺は思う。そういう舞台装置という大きなギミックにも価値がある。ただ、ことさら「神聖」だの「穢れ」だの言わなきゃいい。そもそも、土俵に上がる力士たちが神聖かどうか、トロフィー渡す政治家はどうかといえば、ねぇ(土俵という結界で相撲を取る力士は、その瞬間において別存在になるとかそういう見方もあるかもしれないが)。まあ、そんなのを承知の上で、そういう仕掛けにしておいてください、フィクション守らせてくださいってところでいいんじゃねえのって。
 それに、とくに用もないのに、主義主張のために何かを利用するのはあんまり面白くない話だと思うのだ。女性が大相撲の土俵に上がりたいのなら、上がるべきそれなりの理由があるべきだ。その理を、当事者とともに解したうえで、のぼるべき理由があったらのぼればいい。伝統や文化をアピールの道具にするのは、なんかどうかと思う。今、大相撲の土俵に女性がのぼったことによって世論が喚起され、男女間の格差が劇的に解消されるんなら理由にもなろうが……、むしろ、バックラッシュ起爆剤になるんじゃ。黒人差別におけるバスや白人学校への通学とは違うだろうって。あらゆる非合理は合理によって寄り切られるべきであるとは思わないが、もちろん合理によって押し出されるべき非合理の方が数多くあるわけで、果たしてある件が合理性を持ち出して合理的に判断すべきかどうか合理的に判断しなければいけないと判断する合理は合理によって非合理の合理性を認める以上非合理も合理の上のこととなるわけで非合理を非合理のまま合理の枠組み入れることが合理的でありうるのかあるべきなのかを合理的に判断することはやはり合理の上のことのように考えられるが合理と非合理をともに含んだまま判断しうることができるのだろうかどうか……、一喝、「即非」と俺、いや、わからんが。
 あるいは大相撲の場合、こんなケースもありだろか。乱入した女が取り押さえようとする警備員を寄せつけず、豪栄道を寄り切り、高見盛を張り手で沈める。マイクを持って「なんだ、力士もたいしたことねえな。こんなんで伝統も国技もねえぞ! オラエー。この軟弱で神事をつとめられっか!? 横綱出てこい、横綱! アイム・オンナ・オラエー」。それで、あわてた理事長が機動隊の出動を要請しようとすると、「ここは私が行くしかないでしょう。大相撲の危機ですから」って白鵬。場内拍手喝采、大歓声。で、女と白鵬がっぷり四つに組んで好勝負も、最後は力負けしてしまう横綱。これでは大相撲が……! 悲痛なため息が漏れる館内。女がマイクを持ち上げ、「これではっきりした、今後は……」と言いかけたそのとき、一人の男が花道を歩いてくる。のっしのっしと肩で風切るその姿に、われわれは見覚えがある! まさか? あの男か? その顔にはモンゴルマンのマスク……。
 と、独り相撲を妄想で小手投げしてみたどこまでも自分に猫だましの俺。やめて下さい! 親方! 親方!