極東における布教活動の困難とその対策についての書簡

goldhead2007-12-24

むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など災いを伴う集いにわたしは耐ええない。
お前たちの新月祭や、定められた日の祭りをわたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。
イザヤ書1:13-14

 聖にして偉大なる管区長猊下に謹んでご報告申し上げます。主の威光と慈悲とをこの東の果ての異国に伝道すること450年余、その成果の上がらざることに慚愧の念耐え難くも、我が450年に及ぶ艱難辛苦と日本の人々に対する考察が高進の礎にならんことを恥ずかしながら所望する次第であります。
 さて、異教徒達に対する伝道への困難さは様々に象られて顕れるものでありますが、ことこの日本国においては表面的な受容として我々の心痛の種となっております。こと「クリスマス(Kurisumasu)」と名づけられた彼らのキリスト教的行事に関しては目を覆うばかりの自体となっております。日本人は、生まれつき優れた能力と慎み深さ、勤勉性を兼ね備えた民族でありながら、この時季になると金銭欲と性欲の熱病に罹り、商人達は一枚の銅貨でも多く稼ごうと血眼になり、人々の中でも特に若い者たちは、快楽のための性欲を微塵も隠すそぶりなく街々を徘徊しております。ラブホは特別期間料金などを設けて不当な利益を得ようとしますが、それでも待合室から男女の列が消えることはありません。国中が悪しき魔女の饗宴がごとき様相を呈しながら、心ある人は口をつぐみ、良心は寝床から出ることはありません。もとより日本の人々は人前で本心を呈することを嫌い、男女間のことも忍ぶ恋を尊ぶ性格です。その人々が、我々の神聖な期間に託けるような形でサバトの夜にしてしまうことは、理解しがたい事柄です。まさに末法の世であります、南無三宝。 しかしながら、私めが日本人の習俗、礼儀作法を学ぶうちに、ある民俗学者が見出した考え方を知ることになりました。この摩訶不思議な事象を解明できる一助になるのではないかと愚考いたします。その考え方とは「ハレ」と「ケ」であります。「ケ」とはこの日本人が送る日常生活、本来勤勉さを以て尊しとする民族性の表れたものであって、我らが同胞の異端発想であるプロ倫的な日常であります。一方で、「ハレ」となると、「無礼講」の名の下に礼儀も慎み深さも全て忘れ、遠く祭り太鼓を聞きながら神社の茂みのそこかしこで野エロをするありさまなのでございます。
 そうです、我々の主の誕生を祝う聖夜は彼らにとって国民的な村祭り、「ハレ」の日となってしまっているのであります。クリスマス・キャロルは祭り囃子と化し、サンタクロースは赤い服を着たマレビト、滑稽な門付芸人、千秋萬歳と芸をする代わりに「メリークリスマス」と空虚に叫ぶばかりなのであります。
 おそれおおくも拙僧が申し上げまするに、日本人に我が主の威光と慈悲を伝えるにあたり、我々は「ハレ」の日本人を無視し続けたことが誤りではなかったかと思われます。先に「冬の耶蘇祭り」として「クリスマス」を提供できなかったことに失敗があるのではないでしょうか。祭りの場として教会を提供できなかったことにあるのではないでしょうか。いくら我々の心が開かれていようとも、日本の人々にとって教会の扉は重く閉ざされ、そこに立ち入ることに畏れを抱き、過度の敬虔さが求められるのではないかと警戒されているのであります。
 従いまして、教会には神社や寺院のような庭が必要かと存じます。開かれた庭、公園としての庭園であります。また、日本人の習慣に適合した、賽銭箱を設置する必要があります。土産物も取りそろえましょう。厄災から身を守る棒と杖、安産祈願ロザリオ、合格祈念メダイユ……。聖夜にはたこ焼きや綿あめ、そして季節柄おでんの屋台などが軒を連ね、人々は煩悩を消し去るために、除夜のベルを鳴らす……。
 ああ、我が主よ、思慮深き大管区猊下、私は長い月日をこの極東で過ごすうちに、私が異端に堕ちているではないかという悪魔の疑念に苛まれております。しかし、郷に入りては郷に従え、虎穴に入らずんば虎児を得ず、主の与えたもうたこの困難にはかような形でしか乗り越えられぬと思うのであります……。
 そして乞う、キリスト者の寛恕。