『ヨコハマメリー』/監督:中村高寛

ヨコハマメリー [ 永登元次郎 ]
 関内関外日記などと名乗りながら、今後この日記で「地元でいきつけの飲み屋の話」だとか、「街の顔なじみとのエピソード」などというものは絶対に出てこないだろう。俺のいきつけはマクドナルドでありすき家でありなか卯であり数軒のコンビニエンス・ストアであって、いっさいの人的交流が入り込む余地はない。それは俺が対人関係において心理的に不自由な人間であるということと、金銭的にあらゆる余裕のない人間であるということによって確定的だ。そして、俺のようなやつが増えるに従い、人の顔のある街は死んでいくのだろうと思う。
 ハマのメリーさん。俺は見たことがある……、と、言いたいのだが、果たして本当の記憶かどうかあやしい。いつ? どこで? まったく記憶にないからだ。ただ、脳内のチェック表を眺めると、確かに「見た」方にチェックが入っている。これはおかしい。「メリーさんのような人」を見たことがある、のならそりゃあ何度かあるだろうし、それが「メリーさん本人」になったのかもしれない。あるいは、メリーさんのエピソードを何か(GON!など)で見て、それがすり込まれたのだろうか。それとも、もっと昔、小学生のころなどに都市伝説的に聞き及んだのか? しかし、小学生に街娼の意味がわかるだろうか。
 横浜との距離感を見直す必要があるだろうか。俺はここ数年ここらあたりに住んでいて、このドキュメンタリを見ながらも「ここは!」の連続であって、登場するほとんどの場所は、歩いて行けと言われればいけるくらいなのだけれども、元は鎌倉の人間だ。ものすごく遠いというわけではないが、中高生時分でも日ごろの行動範囲というわけではない。たまの機会があれば出るが、といったところだ。あるいは、もっともっと小さなころ、親戚と会うのに横浜に出て、親の手を引かれながら見た、などということもありうるかどうか。などと言葉を重ねるうちに本当になってくる。
 このように、俺のようにメリーさんから縁遠い人間ですら、何か(ありもしない)記憶の糸を辿ってしまう。ゆえに、この映画を、ここらあたりに住んでいる人、行動範囲だった人、トポフィリアのある人が見たならば、脳内が記憶と記憶のスパークの連続になって、大変なことになるだろう。ヨコハマメリー、その個人像というより街と時代のドキュメンタリでもある。伊勢佐木町の大通りをユニーのその先まで抜けて右折左折するあたりの妙な空気、何の残り香なのか、すこしわかったような気がする。
 そして、人のドキュメンタリ、人の記録だった。メリーさんと交流のあった人たち、元男娼のシャンソン歌手を中心に、メリーさんの行きつけのクリーニング屋の、美容室の、ビルの人たち、老風俗ライター、元愚連隊、写真家、女優、客として認められた団鬼六などなど。中でも舞踏家の大野慶人のインタビューは見ていて面白かった。身振り手振りが絵になるというかなんというか。
 ま、そういうわけで、地元民(というのにまだ抵抗がある)として、これは押さえておこうと思っていたもの、押さえてみたらもう予想以上の食いごたええであって、大変満足。ところどころ、ドキッとするような美しい風景が入ったりして、見ていて全然飽きないし、こう、「メリーさん」をハブにして、物語が有機的につながってくるかのような流れ、しびれる。いずれにせよ、あんまり下調べしないで、ふっと見たら、ガツーンと来ると思うので、気になったらとっとと見てください、っと。