『偽史冒険世界―カルト本の百年』長山靖生

偽史冒険世界―カルト本の百年 (ちくま文庫)
 父の本棚の一角には八切止夫の本が並んでいて、何かと問えば「学会では相手にされない在野の歴史家である。おおむね山田風太郎のようなものだが、中には鋭い論考などもあるのである。読み物としてたいへん面白い」などと言う。八切氏は自分の小さな出版社を持っており、本人が死んだとき、息子からかつて本を買ったことをある人相手に「ダンボール一箱いくらで本の在庫を買わないか」という呼びかけがあったといい、それを「買っておけばよかったかな」などと言っていた。だいたいそこから話がサンカに逸れて、三角寛の話になったものである。

 ……「同性愛者であり、生涯独身を通した」とあるので、ダンボールの呼びかけは家族ではなかったか。父か俺の記憶間違いだろう。で、結局自分は読んでいないのだけれど、「偽史」などと文字を見ると、あの八切の少し安っぽいソフトカバーを思い出すのだ。
 さて、本書に八切氏は出てこない。「信長殺しは秀吉か?」などという推理よりももっと気宇壮大、日本発全地球規模全歴史規模の偽史ワールドを紹介しているのだ。義経ジンギスカン説から日本―ユダヤ同祖説、そしてムー大陸竹内文書である。
 竹内文書……というのも思い出深い。何かその手のテレビだったか、本だったか、ちらりと出てきたのを見て、衝撃を受けた。たぶん、小学生のころ。いわく、漢字や平仮名以前の文字があり、超古代世界のことが記されている云々。そこに、あのロケット型オーパーツなんか並んでいれば、背筋がぞぞぞっとなって、脳内に一大SF妄想世界が展開したっておかしくない。思春期などに起こる「世界はこんなものではない」願望なんかもあるだろうけど、なんだろう、この「ぞぞぞ」の存在も無視できんように思う。この「ぞぞぞ」がなかったら、世の中おもしろくない。
 以下、気になったところのメモ。

第一章 どうして義経ジンギスカンになったのか?

 小谷部全一郎源義経伝説について。奥州からアイヌアイヌから大陸へ。アイヌの伝承は、本州からもたらされたものが現地で口伝えになり、のちに本土人が聞いて驚くという逆輸入の可能性。江戸時代にも蝦夷地支配の正当性のため論じられた感。ただし、小谷部、華族などの人脈を総動員したとはいえ、軍部の方針などに従ったものではなく、個人のアイデンティティに従った。

第2章 なぜ「南」は懐かしいのか?

 一転して南。日本人にとっての南方。澁澤龍彦の南方などを思い出す。彼が少年時代夢中になった南方冒険もの。後に怪獣映画に通じるところがあるという。そういえば、モスラの南方イメージなど入りやすい。
 驚きなのは戦時下に出版された「ムー大陸」本。著者は米国軍人のチャーチワード。

 名前を見てなんかピンとくるところがあったが、なんだかは思い出せない。で、なぜこんな本が戦時下の日本で出版されたかというと、チャーチワードは気づいていないが、人類共通の祖先たるムー大陸の民族の正当な末裔が日本人であって、世界各地に伝わっていた太古の文明の源こそ日本にほかならない、という国威発揚目的。提供は大政翼賛会調査部。こりゃあすごい。けっこう長めに序文が引用されていたのだけど、それだけでも読む価値あり(「クローズ・アップ」なんて言葉も平気で使ってるぞ)。しかし、戦時下の日本、学校で習っただけの悲惨な戦時下像の一筋縄ではいかないような気もしてくる(悲惨でなかった、というわけではないので、念のため)。
……つづきはまた。
 やっぱり、面倒だからここで終わり。なぜ、その当時の超エリートが偽史にのめり込んでしまうのか、あるいはエリートでなくとものめり込むのか。そうであってほしいという願望が歪める歴史。その個人に属するもの、あるいは民族に帰するもの。大本教と天津教。弾圧の一方で、戦時下の裁判、いくつか無罪判決が出ているのが興味深い。いろいろなところで繋がりのある偽史人士たち、それらを主役に山田風太郎みたいなのあったら面白い。初期SF。この著者に本あり。決して一方的に笑いものにする、あるいは非難するような姿勢はない。愛があるというのは解説の鹿島茂の言うとおり。しかし、現代新興宗教も戦前には出尽くしてる感がある。
 あとあと、大本教出口なおの自動筆記、お筆先がちょっと引用されていてその冒頭。

三千世界は一度に開く梅の花

 検索すると「は」は省くこともあるようだけど、これはいいねえ、すごくいい。ものすごくいい、何かの消息がある。梅というところがいい。桜ではいけない。これはいい、とても気に入った。大本に入信するとか、そういう気はさらさら起こらないが、これはすばらしい。