愛国カンフー対空飛ぶ聖火

先日、ヨーロッパや北米で行われた聖火リレーが妨害行為を受けたことを受けて、ジャッキーは「わたしから聖火トーチを奪おうとする者が現れたら、その人はカンフーのすごさを思い知ることになる。願わくば、誰もわたしに近づかないでもらいたい」と語った。また、「聖火リレーを妨害しようとする者の多数は、ただ注目を浴びたいだけだと思う。世界のニュースになりたいという目的以外、特に理由はないのではないか」とも話した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080418-00000010-rcdc-cn

 ジャッキー・チェンといえば日本でも人気が高くテレビでもおなじみのスター。それだけに、こういう一面を見せられるとショックだ……と、言いたいところだが、俺は前にジャッキーのこういう面を見た覚えがある。テレビでだ。
 あまりに曖昧な記憶なので、それは留意されたい(検索すると、似たような記述はひっかかるが)。それは、日本のテレビのインタビューだった。尖閣諸島について話が及んだ、あるいはそれが目的のインタビューだったか。目の前に広げられた地図、テレビ局が用意したものだったが、尖閣諸島が日本領土と色分けされているのを見るや、「これは間違っている」というようなことを言い、破り捨てたか放り投げたかしたのである。これには大変おどろいた。俺は、映画でのジャッキー、日本のバラエティでウッチャンと競演するジャッキー、そんな存在としてしか意識したことがなかったからだ。そして、少なからず日本に好意を抱いていると感じていたからだ。
 もちろん、その国の人への好意と、領土問題は分けて考えられるし、両立もできるもの。しかし、ジャッキーはあえてその場でその行動をとった、その姿を日本人に見せることを厭わなかった。ただ、救いがあるとすれば、少しジャッキーが悲しそうに見えたことだ。いや、少し悲しそうに見えたという記憶があるというだけだ。ナショナリストたるもの、どこかで情や何かを踏みにじらねばならない場合があるという、悲哀がなければいかんと思う。いや、ナショナリストに限らず、左翼の闘士だろうと、どっかしら悲哀がなきゃだめだ。悲哀があろうと駄目な考えや行動はあるけど、無いよりはずっと話を聞いてやろうという気になる。それは単に、俺の好みだけれども。
 まあしかし、俺がジャッキーに悲しみを見たのは、俺のジャッキーに対する幻想がそうさせただけかもしれない。今やもうわからない。上の発言、もちろん文字に書き起こされたものだけに、表情までは伝わらない。だが、「ただ注目を浴びたいだけ」などという物言いには、慈悲も悲哀も感じられない、傲慢さしか伝わってこない。それはやはり、残念なことだジャッキー。中学に入って、仲良くなりはじめた友人たちと行った最初の映画が『プロジェクト・イーグル』だったぜジャッキー、下ネタ、嫌いじゃなかったぜ。
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 善光寺聖火リレーのスタート地点提供を辞退した。これは、本当によかったと思う。仏教がいかに非暴力・非抵抗のものであろうと、抵抗せずに暴力に与することになる非暴力は非暴力ではないように思える。もちろん、引き受けて、その上で同じ仏教徒への、人間への祈りを表明する方法もあったろうが、それによって生ずる事態までどこまで一つの寺院が負いきれるものかどうか、それはある意味攻撃的になりかねず、そうせよとも言い難い。それゆえに、辞退というのがよりよい選択であったと信じる。もし、管理され、徹底的に演出され、カットされた聖火リレーの映像で、日本の寺院がそれを祝福するように映っていたとしたら、たとい僧の思いがどうであれ、どのように利用され、受け取られるかというと、決して僧の思いの通りにはなるまい。願はくは、日本では日本ならではの方法で、混乱を引き起こさずとも粛々とチベット問題への抗議が世界に表明される形でのアッピールがなされますように。みなとみらいあたりであれば、旗を持ってはせ参じたのだけれど、そうもいかず、その程度の思いなのだろうと言われればその通りとしか言えないが、それでもなお、だ。