『太陽』/監督:アレクサンドル・ソクーロフ

太陽 [DVD]
 妙に緊張して画面を見ていた。スリルやサスペンス、アクションもバイオレンスもない(覗き込む佐野史郎の顔はサスペンスもしくはホラーかもしれない)。ただ、気づくと画面に見入っている。食い込むように。ときどき「おい、これはイッセー尾形で、ロシア人の造ったフィクションなんだぜ」って自分に呼びかける。なんという映画。
 御前会議の様子があって、こっちがわ陸軍、こっちがわ海軍っていうのが、ほんの短いシーンのほんの短いやりとりから一目瞭然。配役、服装、台詞。ここまで食い込んでいるのか、という驚き。ただ、世界中の陸軍と海軍のカラーが似たようなものなのかもしれない。
 「その時、歴史が動いた」的な展開はない。写真撮影と聞いてあれかと思うも、それではないのだ。その抑え具合がなんとも言えない。あるいはその距離感で、天皇と情況の隔たりを表しているとでもいうのか。
 俺はつねづね自分を昭和の子だと思っている。そう書いている。平成以後は余生、おまけ、そんな感じがする。平成から阻害されている感じがする。そりが合わない。たった十年、十年しか昭和を生きていないのに、平成はその二倍も生きているのに、俺という俺は昭和に置いてきてしまって、今は抜け殻が未来の映像を見せられているような気さえする。それが一般的な人間の成長における過程、分断、十歳までとそれ以降の違いとたまたま重なっているだけなのかどうか知らない。そんな分断があるかどうか知らない。でも俺はいつだって昭和を志向して指向して嗜好して思考しているような気がする。ノスタルジー趣味とは違うんだ。ノスタルジーじゃなくてリアル。昭和こそリアルであって、平成は俺にとってどこか違うんだ。タイムスリップしてきたみたいだ。君はどうだ。どっかおかしいんだ。もう昭和生まれは引っ込んで、あとは平成生まれに託したらどうだ。そう思わないか。
 桃井かおりのほんの少ない出演時間。ときの皇后陛下(お印が桃だから?)。短いながら、持っていくところは大きい。おそらく、この映画唯一の女性出演者ではないだろうか。いや、ホテルで女性米兵がちらっと映ったかな、まあでも台詞のある人としては。その存在感たるや桃井かおりそのものであって、急に素のやりとりが始まった感じすらする。奇妙だがはまっている。
 天皇は「おかみ!」と佐野史郎から呼ばれる。しかし、どうも天皇が方向的に「上」という感じはしない。どちらかといえば中心という感覚がある。円の中心なのか球の中心なのかはわからない。「日本は天皇を中心とした神の国」という大顰蹙を買った発言があったが、やっぱり中心というのがしっくりくる。
 いささかぎこちなく、あるいは戯画化されているようにすら見えるこの作品での昭和天皇の所作。身体の動き。が、しかし、神格否定を決めたシーン、椅子に座ったまま手と足を前方に伸ばす。その後、ソファで頭をうしろに逸らしてぐったりする。動きが変わった、ように見える。イッセー尾形の真髄、なのだろうか。いざ自由になったとき、空間の中で身体がどう動くのか。ドア、ダンス、ダンスはコニャックと葉巻のせい? 科学者との譲り合い、そして皇后との再会。
 たとえば天皇が人体における頭だとか脳だとか、国家の中でいかなる機能を有するか、皇室があることによって国民になんのメリットがあるのかないのかとか、そういったことに俺は興味がないというか、実感を伴って考えることはできない。かといって、涙を流して平身低頭、まなじり高く万歳三唱という崇拝者ではない。熱狂はない。感情というよりも、感傷に近いような気もする。もうちょっとほんわりとした敬意であり、ゆるやかな畏れ、どう言葉にしてもしっくりこない。もちろん肯定的ではあるが、全てを肯定するわけではない。俺は俺の天皇に対するものを、ほかの人に押しつけたり説いたり、説明するのも無理だと思うし、万が一共感されても俺は俺のだし、それはあんたのものだろうと思うだろう。人は人だ。俺は奥崎謙三をいっさい嫌わない。おかしいか?
 「あ、そう」って、アメリカ人にどう聞こえたのやら。
 ロシア人が監督だから、制作だからという意識はあまり感じない。「日本人には作れない」とは思うが。裁く気はない、というのは信じられる。むしろ、アメリカに対しても厳しい面もあり。あまりに理想化といってはなんだけれども、そうされている風にすら見える。ただ、一つの歴史的人物を扱った作品として、荒唐無稽なものではない。
 司馬遼太郎だったか山本七平だったか、そこらのポピュラーな本で読んだ覚えのあるエピソード。米兵が捕虜にした日本兵に対して、「天皇は神などではない。人類はサルから進化した生き物なのだ」と進化論を教えてやろうとした。しかし、日本兵の方はそんな知識当たり前に持ち合わせていて、いったい何を今さら言うのかという態度。一方で現人神の神話に身を捧げ、一方でそれと衝突するはずの科学も受け入れてその矛盾に苦しまぬ日本人に驚いたとかなんとか。それでもって、当の昭和天皇が生物学に造詣の深いというところは面白い。この映画はそのへんも組み込んだのだろうか、と思えるふしがある。侍従への冗談。君の友だち、ダーウィン
 昭和天皇の人となりを伝えるようなものを読んだことがあるか。遠い昔に文藝春秋に掲載された徳川夢声の「天皇陛下大いに笑ふ」。これは読んだ。母方の祖父の遺品に『文藝春秋にみる昭和史』があって、そこに収録されていたと思う。面白かった、と思う。ただ、ずいぶん前のことで詳細は覚えていない。
 字幕では「私」になっていたけれど、マッカーサーマッカーサーのおでこはあんなに強調しなくてもいいと思った。)との会話における一人称はEmperorだった(ような気がする)。なにか深い意味があるのかもしれない。英国王は一人称に「We」を用いると習ったことがあったが。それは「God and I」らしい。
http://en.wikipedia.org/wiki/We
 英語を解する侍従なら、チョコレートくらい知ってるんじゃねえの? 「はい、チョコレートおしまい!」には笑った。
 ソクーロフの名はこの映画絡みでしか知らない。しかし、調べてみれば『ドルチェ-優しく [DVD]』などという作品があって、扱っているのは島尾ミホであって『死の棘』である。そして、俺が最近活字リハビリに一日一篇読んでいるのが島尾敏雄の葉篇小説集『硝子障子のシルエット』であってこれも何かの縁。次、観てみよう。
 手元にたまたま昭和天皇最後の御著書とされる『皇居の植物』があるので、序文から一部引用。

 現在,吹上に高くそびえているアケボノスギ(メタセコイア)は,米国の古生物学者ラルフ・チェイニー博士が,米国の中国学術調査隊の持ち帰った種子とそれを発芽させた苗とを昭和24年10月に贈ってくれたものである。この植物は,中国の学者が四川省萬県磨刀渓で発見したものであるが,その時すでに日本の古生物学者三木茂博士が昭和16年(1941)に発見したMetasequoiaの論文を見ていたので,化石としてしか知られていなかった植物が生きて発見されたことになり,新種M. glyptostroboides HU et CHENGと命名,発表したものである。米国と中国と日本とを結ぶ協力が調査によい成果をもたらしたと言えることは誠に喜ばしい。

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