道元の話はオモロー

 『正法眼蔵』はだいたい読み方もおぼえられないし、長くて手が出せそうにないので弟子の懐奘の(弟子がまとめたという)『正法眼蔵随聞記』を読んでいる。岩波文庫の、和辻哲郎校訂の版で、それがいったいどういう版にあたるのかは知るところではない。

 まだ読みさしである。ただ、道元の「夜話に云く」に何度か似たパターンのはなしがある。随の文帝(楊堅)、唐の太宗(李世民)などの名君エピソードを挙げ、「俗ですらそうなのだから、仏道もそうでなくちゃならん」的な説教である。

 今のところきわめつけに長かったのは中国の戦国時代、趙の藺相如のはなしだ。

 このウィキペディアに記されているエピソードをだいたいほとんど述べて(ちなみに俺は「完璧」や「刎頸の交わり」の故事がここにあったとは、はじめて知りました)、こう〆る。

相如身をわすれて道を存することかくの如し。今ま仏道を存することも彼の相如が心の如くなるべし。寧しろ道ありては死すとも道無ふしていくることなかれと云云。

 というわけで、「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」的なことを(これも「外典に曰く」とか言って引用してた)教えるために述べているわけだ。
 というわけなのだけれども、道元といえば宋へ留学して帰ってきた人間であって、当時の日本にとって中国と言えば全世界くらいの代物。そこから持ち帰った歴史夜話なんてのは、坊さんにしても話として単におもしれえって、そんなところがあったんじゃねえかとか想像してみた次第。
 って、でも、碩学の僧つうたら、漢文できるし、別に道元が持ち帰ったエピソードってわけじゃあねえか。空海だって、日本にいた段階で中国史に通じていたはずだったっけな。でもやっぱり、教祖だの開祖だのというのは、あるていどしゃべりが巧くないと駄目じゃんじゃねえのみてえな、そんな風に思ったりもしたりとか。

正法眼蔵随聞記 (岩波文庫)

正法眼蔵随聞記 (岩波文庫)