『正法眼蔵随聞記』読了。

 道元の話がオモローな正法眼蔵随聞記』読了。返す刀で秋月龍みん『禅門の異流 盤珪・正三・良寛・一休』も読了。ついでに読みかけだった盤珪禅師語録』も読了。抱いた感想というのは「『随聞記』読むかぎり、道元も‘異流’と変わらんよな」みてえな。
 ともかく道元、言うことときたら「ともかく只管打坐(座禅)しろ」ちゅうことに、「坊さんはともかく尊いんだ」、「立派な坊主で貧しくなかったようなやつはいなんだ、寺や仏像より衆生の命のほうが大切だ」、「でも、悪い言葉遣いするな、論争なんて無駄なことするなよ」と。そうすりゃ、それぞれに得るところがあるんだぜって。まあ、何も知らないところで読んで、「坐禅ばっかり重視した異端」って言われりゃ、そう思えてしまう。って、一応それにあたるところを引用しておこう(あと、なんか括弧の中がべらんめえ口調なのは何となくであって理由はないです)。

禅僧の能くなる第一の用心は、只管打坐すべきなり。利鈍賢愚を論せず、坐禅すれば自然によくなるなり。

 これが肝。「昔のやつが公案で悟ったってのも、坐禅してたからであって、坐禅の効用だ」って具合。ともかく、生ある一瞬一瞬を、おのおのの許すかぎり行じろよ、と。ここんところは非常に単純明快な主張だろう。

破戒無慚の僧侶なりとも僧体をば迎信すべし。

 それでもって、やっぱり出家主義とはいうのかどうか、まあやっぱり僧は尊いちゅう考え方。それで例えば、「今、自分には病弱の母がおり、自分が出家してしまえば飢え死にするしかない。それでも出家したほうがいいのでしょうか」とか問われて、「そりゃあ母親の面倒を見てやって、その後に心おきなく出家するのもいい。強く願えばなんとかなるものだ。でも、ここで母を見捨てて仏法を修行しても、それは今生にとどまらない、母一人に対する以上の報恩にもなるから、まあどっちがいいか自分で考えろよ」と、そんな具合。でもここで、「母を見捨てて出家するのが正しい」と言い切らないあたりが、なんかいい。というか、ここで「母を見殺しにして出家してこそ真の報恩」などと言い切られてしまったら、なんか台無しになっちまうって気がするわな、こちらの世界の住人としては。で、このパターンは、先輩僧の明全が重病瀕死の師匠が「今はとどまってほしい」というのにあえて入宋したというエピソードも同種か。

いまだ財宝に富み豊にして仏法を行するとは聞かず。皆よき仏法者と云は、或は布衲衣常乞食なり。

 それでともかく貧しくあれと。仏像を金に換えて貧しい人に施すは仏法にかなってるんだぜ、ってなエピソードもいくつか紹介している。

古へに謂ゆる君子の力は牛に勝れり、然あれども牛とあらそわずと。今の学人、我が智慧才学人に勝れたりと存ずるとも、人と諍論を好むことなかれ。亦悪口を以て人を呵責し、努目を以て人を見ることなかれ。

 これについては、道元自身も気をつけてることで、三回問われて一回答えるくらいでいいとか、あるいは人の非を注意するときは、相手が腹立たないように方便して、なんか別のことを言うみたいにするのがいいぜ、みたいなことも言ってる。この悪口を嫌うというところは、良寛にも受け継がれているというあたりという。でも一方で、ともかく拳が欠けるほどぶん殴る厳しい宋の修行を称賛しているので、このあたりは現代の体罰問題とも一緒で、打つべき資格のある人ならば、また、打たれる覚悟の人ならば打つべしというあたりだが、なかなかそれを使いこなせる人間はいねえとか、そんな感じだろうか。ルルーシュも「撃っていいのは撃たれる覚悟のある人間だけだ」って言ってたし。

今各も一向に思ひきりて修して見よ。十人は十人ながら得道すべきなり。

 それでもって、たとえ病弱で明日死にそうだろうと、自分を物わかりのない馬鹿だと思っても、卑下することなく全力でやれ! と、それをくり返す。無常迅速、心命を放下せよ、と。
 と、もう長くなったのでやめよう。『禅門の異流』については項をあらためる。でも、盤珪との比較というかなんというか、そのあたり。道元曹洞宗は今現在も流行ってるらしいし、禅の、仏教の主流の一つだろう。しかし道元にしてみれば、やはり自身を一宗派と見ることはなく、自らこそが仏道の正統という、その強烈な意識がある。
 でも、俺のような信なき者がちょっと接するかぎり、そのラディカルさというか、エキセントリックさというか、そのあたりは実に『異流』と変わることがないように見える。結局、道元曹洞宗が後に流行り、盤珪の不生禅がとぎれたのも、それぞれの宗祖の考えの差というより、寺院の経営がしやすいかどうかとか、時代背景とか、そのあたりの差じゃねえの、みてえな、そんな風に思った次第。
 道元の方にはともかく坐禅という形があるし、形から入れば真の道心が芽生えるもんだって言ってるし、そのあたりはわかりやすい。寺と僧というものを肯定しているし、座禅ってのはまあ一つのイベント体験として成り立つわな。
 しかし、一方で、盤珪の方となると、「仏心は不生にして、霊明なものに極まりました。不生な仏心、仏心は不生にして霊明なものでござって、不生で一切事がととのいまするわいの」というだけであって、公案は役に立たねえし、坐禅してもしなくてもいいけど、たとえ居眠りしたって眠りの仏心だぜ、みたいなもんであって、はっきりいって盤珪級の僧(俗のことではあるけれど仏智弘済禅師・大宝正眼国師を朝廷から賜ってるから「異流」どころじゃないわけで)が「不生の仏心でおらっしゃれい」と説くのでなければ、あまりにも言うことなす事が少なすぎて、まあ成り立たないんじゃねえのみたいな感じであって。倶胝の一指を俗人が立てたところで、つき指するのがオチだぜってところのような。
 とはいえ、もちろん、俺のような信心なしの浅学菲才の人間が文字の影を追っているだけでも、これがもう見事に、道元盤珪もその他禅師も、究極的に言ってることに差がない、と感じるところに、そこんところに仏教のコアが確かにある、悟りというもののコアがある、そう思ったのでした、と。
 というわけで、以上は信仰も学もない人間が読みかじったのみであって、万が一なにか気にとどめる部分があったならば、原典をあたってほしい。そして乞う信心深き人のご海容。
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 この後さらに『教行信証』(親鸞)、『蓮如文集』(蓮如)、『驢鞍橋』(正三……鈴木大拙校訂だったので思わず)、『禅について』(鈴木大拙……戦前の古い文庫本で、巻末に「松ヶ岡文庫印」の検印があった)などが控えている。まったく読書に偏りがある。でも、ここらあたりの本を読んでいるのは、実にエキサイティングな体験だ。血湧き肉躍るような面白さがある。いつかは鈴木大拙の浄土系の本を手に入れたい。あと、西田幾多郎もおさえとく? まあわからん。いずれ。
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正法眼蔵随聞記 (岩波文庫)
禅門の異流―盤珪・正三・良寛・一休 (筑摩叢書)
盤珪禅師語録 (ワイド版 岩波文庫)