トイレマークからベリーベリナイスな社会へ向かって

男女共同参画」の視点から、トイレのマークに同一のデザインを採用してきた大府市が揺れている。男女の区別が付かず、迷う人が多いため。「分かりやすさ」の面から、現在建設が進む施設には、新しいマークを取り入れる方向で検討中だ。

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20081028/CK2008102802000038.html

 Yahoo!のトップでも紹介されていたこの話題について考えてみました。そして私は、これは本末転倒ではないかと思ったのでした。
 何の本と末が転倒したかといえば、「男女共同参画」の視点、厳密な定義はわかりませんが、ジェンダーフリーやそういった目的と手段が転んじゃったんじゃないかと思ったのでした。たぶん、男女共同参画や何かの目的は、男女共同参画それ自体ではなく、男女共同参画によってナイスになった社会なのではないかと思います。もしもそういう考えが、幸福は永遠に女だけのものであるという考えからもたらされ、それを目的としているならばもう話になりませんが、そういう話ではないと思います。ひょっとすると男の意識して、もしくは無意識に持っていた不当な利益を手放すことになるかもしれませんが、男女共同参画によって総体でいえば社会がよりナイスになる、最大多数の最大幸福へ向けてということじゃないかと思います。
 じゃあ、そのナイスな社会で、字の読めない人は排除されていいのでしょうか? 公共のトイレといった基本的なところで、その国の言葉がわからなければ大きな問題を引き起こしてしまうリスクを他言語使用者に負わせるのがナイスなんでしょうか? それは違うと思うのでした。ナイスな社会では、より多くの人への配慮が必要とされるんじゃないかと思ったのでした。
 例えば、ラッピングバスというバスをラッピングして広告代を稼いでバスがしあわせになるような取り組みがあります。けれども、知的障害者は自分の乗るバスがわからなくなってしまうという懸念から、バスの顔(車体前面)は元の顔のままにするという話があります
 例えば、デジタルテレビのリモコンの四色ボタン、これにはたぶん全ての機種に赤・青・緑・黄という文字が入っているんじゃないかと思います。色覚障害者のための配慮です。
 もちろん、言うまでもなく、街中のあちらこちらで見たり聞いたりできる、視覚・聴覚に対するさまざまな配慮もあります。私には、たとえば上記の配慮が正しいものか、十分なものであるかどうかは判別しかねます。たとえば、屋外サインに点字案内と触知図を作ってみたけれど、夏の日光で触ったら火傷しちゃうんじゃないか、みたいな失敗もあると思います。しかし、やはりそこには配慮があります。
 さて、男女共同参画の視点が、社会をナイスにするという目的があるとするならば、なぜそこで他のバリアを作ってしまうことに思いがいたらないのでしょうか、とその点が気にかかったのでした。別に私は、男女共同参画を話し合う上で必ず字の読めない人のことについて議論せよ、漢字もひらがなもアルファベットもわからぬ外国人旅行者について議論せよというつもりはありません(単純に割り切れぬ性を持つ人について話し合う必要はあるかもしれません)。ただ、公共サインを作るにあたっては、そこに参画するにあたっては、その公共施設を使う可能性のある、できるだけ多くの人について配慮する義務があるように思えます。ナイスな社会を作るための手段であるところの男女共同参画だけを目的として、さらにその目的にかなうのかどうかわからない珍妙なもの作っては、バックラッシュだとかワイルドラッシュだとかアバンストラッシュだとかいうものを引き起こすだけじゃないでしょうか。

ガイドサイン グラフィックス

ガイドサイン グラフィックス

 しかしたとえば、世界基準で言えば、このグリーン地に白で便座に座った同一デザインがスタンダードなのかもしれません。いや、その可能性はないと思いますが、一応上の本をパラパラめくってみました。もちろん、日本と世界(先進国)の公共デザインの一部の事例に過ぎません。アラブ世界やアフリカがどうなっているかはわかりません。それでやっぱり、だいたい日本のJIS基準デザインに近い、男性人型、女性人型、色も青と赤に分かれている、そんなデザインが多かったのでした。建物トータルのイメージカラーとして赤なので男も赤、というケースもありますが、形で差をつけているのでした。唯一、ドイツのある建物の例だけが、男女同一ピクト色分けなしで、「damen」と「herren」と書いてあるばかりでした。
 ……それで私、ドイツ語知らずなんですが、こう書いてあったら間違いなく「damen」の方に入ると思うんですが、調べてみたら「damen」が男で「herren」が女だったのでした。DA PUMPみたいに「Da Men」ではなかったのでした。ドイツ人の狡猾な罠なんだと思ったのでした。西川ヘレンだって間違えると思う。
 そうなのです、私は別に知的障害者や異邦人の代弁者ぶるつもりはないのです。ただ、いつどこで窮地に置かれた大便者になるかわからない、一個の人間であるという立場なのです。代弁と大便をひっかけるためにここまで長々と書いてきたと言ったら、あなたはどんな顔をするかしら? それはともかく、やはり人間としての体面の危急存亡の時に、うっかり女性トイレに入って悲鳴を上げられ、思わず脱糞、なおかつ逮捕という悲劇だけは避けたいと思う。そのために、できるだけ世界中、人型の、そして男女に分かれたピクトであってほしいと思うのです。
 もちろん、あるいは青赤の色分け、男女の形が西洋文化圏以外に通用するかどうかはわかりません。これがベストであるとは言い切れません(そもそも人型ピクトがトイレを表すというのはなかなかに凄いことですよ。異星人や超未来人がわれわれの遺跡を調べたとき、そのマークが便所だとわかるでしょうか? 人間これ糞袋だなんて、臨済とかよく言ってたと思いますが)。しかし、少なくともその界隈でできるだけ多くの人がわかりやすいようなデザインがなされるべきではないでしょうか。もしも新しいデザインが必要であれば、既存のこの色の人型を一掃するに値するくらいのものでなくてはなりません。世界が一斉に導入して、これはナイスだと、さまざまなバリアーを取りはらう、なおかつ大便者をも救う、そんなものでなくてはなりません。これは決して無理難題をおしつけているわけではなく、単に難題なんだと思います。少なくとも、この記事で紹介されている例は、課題に対して応えているとは思えません。上の本では、トイレピクトで緑色というと、だいたい車椅子用かオムツ替えの赤ん坊に配されていて、むしろ男女共用を意味する傾向にするんじゃないかと思います。また、もちろん文字の問題や刹那の判断が問題になるときに、けっして優しくない、ナイスなものではない、そう思います。ナナリーが望んだ優しい世界はそんなものではないって、そう思います。誰だよナナリー。好きだよナナリー。
 しかしながら私は「だから男女共同参画は駄目なんだよ」、「フェミニズムはくそったれなんだよ」などという話になっては面白くないと思います。誰にでも失敗はあります。人間なんてしょせん、悪行を為そうと思ってもたいして為せたり為せなかったりするし、善行をしようとしてもたいしてうまくいくものではありません。しかしながら、それでもちょっとでも色々な視点からナイスな方へ、ナイスな方へ進んでいけば、いくらかみなだんだん賢くなって、そこそこナイスになっていくものではないでしょうか。人間そんなにナイスな方へ賢くなっていないかもしれないけれど、いくらかは賢くなっているかもしれない。私も少しは賢くなりたいし、ちょっとは利口になっているかもしれない。我々はますます賢くなりたいし、利口になりたいと思う。少しずつナイスな社会を実現したいと思っているし、少しは利口になっているかもしれない。いけない、武者小路実篤に電脳を乗っ取られた。
 その上で、そのカテゴリで考えるナイスの実現と、ほかのカテゴリで考えるナイスなこと同士のバッティングも出てくるんじゃないでしょうか。そのときにはさらにナイスで、ナイスな、ベリーベリナイスな、そんな社会のことを考えて、分派対立の無間地獄から脱して、和合の方へ、和合の方へ、そんなに目くじら立てないで、ぼちぼち、それなりに、なんだかんだいいながら、よりますます優しくなっていけばいいのだと思ったのでした。おしまい。
関連______________________

  • 相撲その他の悪霊について……土俵と女人禁制について考えたときのことです。ある目的のために行動する場合、それが本来のベリーナイスであるべき目的から離れ、さらに実効性もなく、「それをアピールするための」となった時点で、ほとんどアピールにすら失敗しているのだと思いますが、どうでしょうか? もし「ための」アピールがあるならば、ユーモアがなくてはならないと思います。
  • 『悪人正機』吉本隆明……ここに引用している「自分だけがストイックな方向に突き進んでいくぶんにはかまわないんですけど、突き詰めていけばいくほど、他人がそうじゃないことが気にくわねえってのが拡大していきましてね。そのうち、こりゃかなわねえってことになるわけですよ」や「何かこう、みんなが同じようにそのことに血道をあげて、一色に染まりきらないと収まりがつかないって人たちは、根本の人間の理解から違ってるんだよってことです」というあたりだと思います。