清水健太郎の三度目の帰還

 警視庁浅草署は30日、俳優の清水健太郎容疑者(56)=本名・園田巌(いわお)=を自動車運転過失傷害と道交法違反(ひき逃げ)容疑で逮捕した。容疑を認めているという。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081031-00000006-maip-soci

 おそらく黒羽刑務所で先輩後輩の仲(同時期にいなかったと考えられるが)であったろう田代まさしの名がちらほら聞こえてきたと思ったら、清水健太郎がまた逮捕というお話。なんというのだろう、転落人生などと簡単に言えてしまうようだが、このツキの無さというのは、いや、運不運ではなく当然この場合は運転者としての責任、そして社会人としての罪は、主体的な彼という人間自身の責任が問われなければいけないものなのだけれど、やっぱりその、こう、一度何かケチがつくと、どうも繰り返されてしまう、そんな人間のある種の流れというか、運命というか、そういうものはあると思う。故・三浦和義なども、一度は脱したかと思いきや、最期はやはり取り込まれていった。山本モナにも見られる、人生の流れというものだ(モナは犯罪してないけど)。
 何もかも運命やツキのせいにしてはならないけれども、なかなか人間個人には難しい部分もあると思う。いかんともしがたいものもあると思う。かといって、それを罪と罰の上で弁護に用いられないわけであって、いくらか、少なくとも俺の心の中では、なんとなくどっかしら、ちょっと同情したくなるような、そういうところに留める。心にひっそりしまっておく(という割に書いちゃってるけど)。
 しかしなんだ、その運命やツキ、流れはどうにかならんもんかね。たとえば、俺にとってシミケンといえば「失恋レストラン」というよりもVシネマの『雀鬼』シリーズなわけで、シミケンは人生において第一打で自牌やドラを切りまくっちゃった(雀鬼流の御法度。とりあえずこれだけは真似してみたりするよね?)のかな、とか、なにか因果があるんじゃねえかみてえな、そういう気にもなる。どっか人生で亜空間でポンしなきゃ、流れが変えられないのかな、とか。でも、そんな風に人智によるアプローチなんてものもたかがしれていて、逆にそこにつけ込むような偽宗教みてえなもんもあるし、まああるようでない、ないようである、あるけれどもいかんともしがたい、そう思っておくしかないか。