『光の雨』/監督:高橋伴明

光の雨 特別版 [DVD]

 連合赤軍物である。二重構造、三重構造をとっている。立松和平光の雨』を原作にした映画『光の雨』を制作する様子をドキュメント映画として記録する様子を描いているのである。連合赤軍(名前はフィクション化されている)は、あくまで劇中劇で描かれるのである。
 俺はその予備知識をして、一抹の不安を描いた。メタがメタメタになって、正面から描き切れていないのではないか、逃げたのではないか、と。いい意味で裏切られた。この形式をとったのは、ある種の痛々しい正面突破の全面展開、逃げて消えたさまそのものが、この事件とその世代についての現れのように思える。よくわからぬが、これは立体的な映画、という印象を抱いたのである。惨劇についても、劇中劇ながらきちんと描かれていて、劇中劇らしい白々しさはない(劇中劇から劇に戻ったときの方が白々しい)。
 学生運動連合赤軍新左翼。何となく雰囲気でしかわからん。父は吉本隆明に傾倒する早稲田の学生で、真っ盛りだったようだが、多くは口にしない。映画の中にも出てくるもどかしさがある。総括してくれ、などと思うこともある。その違和感。総括できていないのではないか、その世代。筋違いかもしらんが、そう思う。
 連合赤軍の山のアジトの狂気、凶行。そのあたりの問題。猟奇殺人趣味者の単独犯行とは違う、人間の集団が引き起こすことがら。そこには興味を抱く。おそらく、凄惨なリンチを行った人たちも、たぶん普通の学生だった。普通の人が、いつの間にか普通からはるかに乖離する地点。集団の作用。それは、チンピラ少年たちがリンチをエスカレートさせて、暴行の対象をわけもなく殺してしまうことから、カルト宗教の凶行や、あるいは国家規模の軍隊、戦争に見られる狂気、凶行、もちろんそれぞれにお題目などは違えど、そこまでどこか重なり合って、一気通貫のところがあるのではないか。もちろん、それは自分が縁遠いことと遠ざけて考えられぬこと。気がつけば暴力をふるう集団の中にいるかもしれないし、気づかずに今この時点で見えない暴力を振るっている可能性もある。「その集団のその戦いと、この集団のこの戦いは違うよ、全然違うよ、大丈夫だよ」、などという差異はいくらでもあるだろう。しかし、俺はどうも、「人間の集団」というえらく大雑把なところに潜む、なんらかの共通したやばさを感じずにはおれないのだ。もちろん、人間の個人というさらにしょうもないものが信じるに足るものであるとも思わん。ただ、個人からでは生まれえぬところの、相互の中から生まれてしまう良さの裏返しが、あるいは良さとべったりくっついた裏側に、しょうもない悪さが、人間の集団の悪さがあるように思えるのだ。
 また、戦争を生き残ってしまった戦中世代と、学生運動で生き残ってしまったその世代。そこに重なり合うところはないのか。高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』の感想にちらっと書いたが、そこはなんとなく気になり続けている。重なるところはないのか。違うところはなにか。戦争は、外敵外国に完全に負けた、はっきりと負けたけれど、学生運動はなんとなく負けたのか。内なる反革命によって霧散していったのか。だから、撮り始めた映画を撮り終えることができないのか。革命の核角飛車取り西瓜売り誰何するのに返事はせぬか。
 そうだ、今年になってなんとなく昔のピンク映画など観ている、そこに見られるこのあたりの何らかの消息。『女学生ゲリラ』、『ダブルベッド』、いったいどうなんだ。なんなんだ。わからんし、わかりようはないのか。俺は七十年代の最後に年に生まれて、書棚の中に、古いフィルムの中にほこり臭い残り香を感じるばかりだ。
 映画の話をぜんぜんしていないな。いろいろな感想を見てやはり多く指摘されているが、永田洋子にあたる役を演じた裕木奈江、これはすごかった。裕木奈江がこういうものとは知らなかった。山本太郎はどうだろうか。関西弁なのはリアルなのかもしれないが、あれだけの支配をできるような人間には見えにくいところもあった。そんなところ。
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