『ガニメデの優しい巨人』『巨人たちの星』/ジェイムズ・P・ホーガン

ガニメデの優しい巨人 (創元SF文庫)
巨人たちの星 (創元SF文庫 (663-3))
 名作ハードSF『星を継ぐ者』の続編である。これで三部作としたりすることもあるようだ。俺は『星を継ぐ者』の感想文で、解説文のこのような引用をし、以下のように書いている。

 ニーヴンは、結局は、小説を書くのかもしれない。当初のアイディアや科学や技術の存在が、ストーリー展開の中で、急速に輝きを失っていくのを、ニーヴンの長編では、しばしば経験する。ストーリーが、ついに全体を支配していくわけだ。

この失われる輝きについては何か思い当たるところがある。たとえば、『宇宙のランデヴー』の続編とか、その他いろいろ(略)。それで、もちろん主人公のトラウマとか、色恋沙汰とか、社会情勢とか、組織論とか、そういったものを盛り込んだSFがつまらないということは決してないけど、SFの持つある特性の一番濃いところは、ハードなところにこそある。無邪気なほどの科学信奉、人間信奉、無批判な発展への希望、なんでもこい、それでかまわん。

http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20080324#p1

 さあ、続編にあたって心配したのはこれである。『宇宙のランデヴー』が陥ったところ(陥ってなおすばらしい続編群であることは明言しておきます)、そこに陥っていないかというところである。ストーリーがハードなSFを飲んではいないかと。
 で、『ガニメデ』。これ、冒頭はちょっと動きのあるSFだったけど、場面転換するや、会議におけるダンチェッカー先生の長演説が炸裂して、かなり安心。その後もハードに進んでいってなお安心。異星人との遭遇ものとしての魅力を備えつつ……。『タウ・ゼロ』『妖星伝』などを思い浮かべたりしながら味わえる。
 ……そうだ、『妖星伝』と比べながら読んでみるのがいい。この地球という妖星をどう見るかというところ。そこで成り立った人間という知的生命をどう見るかというところ。もちろん、人間をどう見なすか、生命をどう見なすかというところは、有史以来多くの宗教や哲学、思想が論じてきたところ。しかし、天地創造の、生命誕生の、生命進化の科学的な経過(すべてが明らかになったわけではないけれど)を叩き台として、そこを考える、その作業。そこらあたりは、まあ、俺は倫理科学? 生命科学? など学術的なところがどうなってるかわからんが、SFの領域、SFのコアなところだぜ、って思う。『ガニメデ』はそこらあたりが面白い。
 で、『巨人たちの星』。これ、『巨人の星』と訳してしまうと、もうちょっと違うイメージが、ハードSFを激しく害するイメージになってしまうあたり、翻訳者泣かせとも言えるだろうか("Giants' Star"なので直訳で正しいんだけど、『巨人の星』って言いたいやん、俺)。それはともかく、こちらについては、やや「ストーリーが、ついに全体を支配していくわけだ」感を抱かずにはおれないところがある。夾雑物たる人間関係だのなんだのが、やや色濃いような気がするのだ。
 でも、なかなか面白いのは、あたらしい技術要素として、ネットワークが描かれているところだ。すべてを覆うコンピュータ、人工知能の存在が描かれているところだ。前作から登場している大宇宙船を仕切るA.I.であるゾラック(ソウヤー『ゴールデン・フリース』のイアソンみたいなもんだな)、そしてさらに巨大な星間ネットワークであるヴィザーにジェヴェックス。ここらあたりはなかなかに面白い。ここらあたりが作る知の集合と仮想世界っぷりはなかなかに面白い。しかし、P・K・ディックなら主人公達を現実と仮想の無間地獄に陥らせ、ウィリアム・ギブスンなら空きチャンネルに合わせた空の色の下のチバ・シティでミラー・シェイドのサイボーグがオノ・センダイを叩くところを、そういった方向にいかないあたりの、健全な仮想現実であり、健全な電脳戦であって、そこらあたりがなんとも言えない味がある。いや、しかし、ヴィザーやジェヴェックスの発想というのは魅力的だな。
 ……と、なんだかんだで『巨人たちの星』もつまらないはずがないのだ。ただ、ちょっとソフトなのだ。それでも、やはり前作から継いで地球という、人間という成り立ちについての奇想があって、なおかつそこに肯定をしてしまう、その健康さには頼もしさを感じる。などと書くと、真面目で退屈な作品と勘違いされたらもったいない。そんなことはない。ハードに、びしびしと、そりゃあもう、ワクワクのたっぷりつまった、そういうものだよ。ともかく、ビューだよ、ビュー。ね。それで、ちょっと不安を感じつつ、三部作に継いだ四部目も読みはじめているところ、と。