鎌倉へ/澁澤さんの墓の方へ

 大船から下りの横須賀線。僕が中学と高校の六年間、毎日のように乗った電車。しかし、大船駅のホームで、いったいどちらが上りでどちらか下りなのか、もうすっかりわからないのだ。
 北鎌倉で降りると、ホームには前の電車、あるいはその前の電車の人たちが改札を抜け出られずに往生している。観光の日よりに北鎌倉を訪れるのなら、先頭車両に乗るとよい。

 建長寺とは反対側の方へ出て、源氏山の方へ。その途中、少し大きなお寺がある。浄智寺という。入口の看板を見ると、「ゆかりの文人」として澁澤龍彦の名がある。墓所、とある。そうだ、今日は澁澤さんの墓参りに来たのだ、ということになる。拝観料を支払い、奥の方へ。しかし、お墓に立ち入れるのかどうかはわからない。
 お墓にはとくに立ち入り禁止もなく、隅から澁澤さんのお墓を探す。一番下から、一つずつ。しばらくすると、連れの人から「あったよ」と声がかかる。先に見つけられて少し悔しく思う自分がおかしい。

 澁澤さんのお墓は、少し階段を登ったところにある。とりわけ趣向を凝らしたというふうでなく、普通のお墓だ。卒塔婆が新しい。墓前に缶コーヒー、小さなお酒の瓶、そして枯れかかったケイトウの花が供えられている。手を合わせ、「ちょっと失礼します」と言って写真を撮った。お墓の周りに落ちていた枯れ葉をどけて、落ちていたドングリを一つひろってポケットに入れた。「お邪魔しました」と言って後にする。

モダンな親王にふさわしく、プラスチックのように薄くて軽い骨だった。

 と、『高丘親王航海記』の一節が思い浮かんだ。
→関連:『澁澤龍彦 カマクラノ日々』鎌倉文学館

 浄智寺には鎌倉七福神の布袋様がいる。お腹をなでると御利益があるという。自分の次になでた見知らぬおっさんが「メタボの神様だな、メタボの」などと言う。

 源氏山を少し登り、化粧坂を下る。切通しの名は、鎌倉の小学生ならおなじみかもしれない。それとも、僕の小学校だけだったろうか? 化粧坂の化粧は死に化粧の化粧だ。そして目的地の一つへ。紅葉など撮る。今の鎌倉、まだ紅葉のさかりとはいえない。

 洞の天井からシダが生える鎌倉。観葉植物のアジアンタムのようなの、ホウライシダか、クジャクシダか、はたまた別のものか知らん。

 境内の蜘蛛の巣ははらうのか、はらわないのか。

 鎌倉にもとうぜん、神はいる。

 昼ごろに鎌倉駅あたりへ。おそろしい人混み。食事をとるどころではない。先に用事を片づけて、時間差を狙うことにする。が、三時頃帰ってきても、小町通りは修羅場である。仕方ないので鎌倉から退却することにする。駅から銀座アスター。昔、ここのおせち料理を買ったことがあったっけ。鎌倉の、実家があったときの話。


 それじゃあ、さようなら。