ハニカミ王子vs地雷ゴルフvs空飛ぶギロチン


――コース内に地雷が埋められているという報道がありました
 「マジ? でも、もうここまで来たら、どうなっても仕方ないです。もちろん、やりたい気持ちはある。地雷を想像すれば怖いです。コースで爆発するんですから。でも、想像しなければプレーに集中できると思う。今は何が何でもやりたいという気持ちではなく、みんなの安全が保証されればやりたい。誰か1人でも安全が保証できなければ、やりにくいですよね」

http://www.sanspo.com/golf/news/081126/gla0811260505004-n1.htm

 ハニカミ王子にハンカチ王子。妙ちきりんな名前をつけられた彼らだけれども、メディアの過剰報道に潰されるのではないか、などという声もあった。しかし、私はそう思わぬ。彼らはこんな名前だけれども、そんなのに潰されるタマではない、と。むしろメディアや人民を思うがままに振り回せるくらいの存在じゃあないのか、と。
 そのスケール、その剛胆を窺わせるのが上のやりとりである。たれもが恐れる地雷に対して「もうここまで来たら、どうなっても仕方ないです」というのだ。この若さにして、生き死になど紅炉上一点の雪に過ぎん、という死線を潜り抜けてきた武人の境地を持っている。「地雷を想像すれば怖いです。コースで爆発するんですから」とサラリと想像を言ってのけ、その上で「想像しなければプレーに集中できると思う」と、莫妄想、無我の境地を述べるわけである。爆発するコース、飛びちるバンカー、共にラウンドするゴルファーが次々と木っ端微塵になるなか、ただ一人冷静にコースを読み、グリーンのターゲットを撃ち抜いていく……。我々はその姿を易々と想像することができる。
 が、そこではまだだ。まだなのである。むしろ、ここからが本物の証である。自ら彼岸に行ききった境地、その座に留まることがない。その座を、その力を誇示しようとはしない。「みんなの安全が保証されればやりたい。誰か1人でも安全が保証できなければ、やりにくいですよね」。これぞ悟りの往還である。一人だけ悟りの境地にあって、悟った悟ったなどと言うのは、まだまだ足らんのである。それは山に一人籠もるに留まる羅漢にすぎぬ。そこからまた衆生の中に立ち帰り、その刹那の喜怒哀楽、生病老死の苦海に身を沈めねばならん。それをわかっている。まさに人の世の王子である、この少年は。我々は、ネパールに現れた仏陀の生まれ変わり(仏陀は生まれ変わるのか?)などというものを拝むより、石川遼を拝むべきなのである。

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