過去と現在のミスター競馬〜野平祐二と武豊について〜

(嘘みてえな馬名と勝負服と鞍上だな)
 昨夜NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組で、武豊騎手が取りあげられていました。国内での活躍に焦点を絞ったものではなく、海外での苦戦に注目した内容でした。それを見ながら、つい最近読んだ、野平祐二(聞き手:赤木邦夫)の『馬の背で口笛吹いて』を思い浮かべていました。野平さんの本を引用しつつ、昔と今のミスター競馬についてつらつらとメモしようと思います。
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 ミスター競馬・野平祐二競馬ファンとしては、調教師生活の晩年しか知りません。シンボリルドルフの調教師であったこと、日本に海外競馬をとりあげたこと、知識のみで知っている程度でした。しかし、いつだったかNHKのドキュメンタリを見て、すばらしいホースマンだったと思ったものでした。また、ディープインパクト凱旋門賞に挑むと聞いて思い浮かべたのも、故野平師だったのでした(「ああロンシャン」)。

馬の背で口笛ふいて

ぼくは、リチャーズの自己紹介を聞いて、鼻の奥がチーンとしました。「四八七〇勝したリチャーズです」とは名乗らず、「ピンザで英国ダービーを制覇したリチャーズです」と口にしたからです。そのリチャーズの言葉に、英国ダービーの重みと個人の名誉、勝ち馬の名誉、言い換えれば、英国競馬の伝統と輝きに、心身ともに魅せられたのです。

 冒頭、こんな話から始まります。思わず鼻の奥がチーンします。リチャーズはwikipedia:ゴードン・リチャーズ。このような海外競馬の伝統と輝きに憧れ、挑み、それを日本競馬に取り入れていったのが野平祐二だったのです。もしこの人がいなかったら、もっと日本競馬は赤ペンと一家離散とお馬で人生アウトばかりのものだったかもしれません(……まあ、それでも構いませんが)。

 むろん、馬券が売られ、賭けの対象になっていることは否定できませんが、それは馬券を買われる側の問題で、競馬そのものとは違います。騎手の立場からすれば、同じ勝つにしてもフェアに、格好よく、いかに目立って勝つかに気を遣おう。そうすることで、ファンにも納得してもらえるだろう、と考えました。まさに父親が言っていたように「ジェントルマンでなければならない」のです。
 ぼくは、そのことをずっと心掛けてきました。ですから、ファンから罵声を浴びせられたことはありませんし、負けても叱られたことはありません。負けたときも納得してくれたようです。中には逆に「あの野郎、勝つときは気取りやがって……」と言われたこともありますが、男の生き方として、この気取りは大切だと思っています。

 この「ジェントルマンでなければならない」というのが野平祐二の哲学というか、かならず守るべきところである。ようです。

勝つために手段を選ばずというケースもままあり、そういう浅ましさに心を痛めました。ぼくは乗り役として勝てないときから、なぜ人間はああいう行動をとるのかと、規則を乱す人々を不思議に思っていました。ぼく自身、この点についてはただの一度も恥ずべきことはしていません。

騎手としての人生は、ぼくにとって悔いのないものでした。だから、「もう一度、生まれ変わったら何になりたいか」と聞かれれば、ちゅうちょなく「また騎手になりたい」と答えるでしょう。そして今度こそは、完璧な騎手、鬼の勝負師になり、英国ダービーで優勝したいものです。

 というわけで、虫明亜呂無のように、競馬を「真・善・美」という視点を通して見た場合、野平さんは「善」と「美」に生きたといっていいでしょう。「真」たる勝利を追求する鬼にはなれなかった。米長邦雄が大山康晴と升田幸三を評して「勝負の鬼と将棋の鬼が戦ったら、最終的に勝負の鬼が勝つ」と述べたそうですが、この場合野平さんは競馬の(善と美)の鬼であって、勝負の鬼ではなかった、といえるでしょう。
 しかし、野平さんも欧州滞在で少し意識が変わったといいます。だから、今度は「鬼の勝負師」と言うわけです。このあたり、昨夜の武豊のドキュメンタリを見ていても感じた話でもあります。今朝、競馬をあまり知らない人の感想を聞いたのですが、「武さんでは優しすぎて駄目なんじゃない? ガンガンいかないと」と。そういう意味で、見た目通りに武豊もジェントルマンである、のかもしれません。もちろん、あんなに負けず嫌いな人はいない、といわれるトップジョッキーではありますが、まあそう見えてしまうことはしょうがない。メイショウサムソンは二度カットされ、一般戦ではフランスの馬券親父に野次られる。
 こうなると、やはり武豊が君臨できるJRAの競馬の性質というものにも思い至る。ひょっとすると、皆お行儀がよすぎて、ひどくぬるい競馬をしているのではないか。だから、ペリエやらルメールやらデムーロやらの外国人騎手や、安藤勝巳や岩田康誠内田博幸などの地方出身騎手に牛耳られているんじゃねえのかと。もちろん、あまりに単純すぎる見方ではありますが、さんざん指摘されていることでもありますし、やはりいくらかの真実を含んでいると、そのように思えてきます。凱旋門に向かう道に車線などないのです。
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 さて、野平さんのジェントルさ、優しさの対象はもちろんサラブレッドにも向かいます。代表的な騎乗馬、スピードシンボリについては思い入れたっぷりです。

 激しく走る馬に対して、ぼくは「労る」という気持ちになります。とくにスピードシンボリとの出会いが、そうさせました。なにしろ五年間もの間、スーちゃんと一緒でした。普段厩舎の中では物音一つたてず、いるかいないかわからない馬が、いざとなると、どこにそのエネルギーが隠されているのかと思うほど、頑張ってしまう。
 欧州の過酷な馬場では、優勝こそできなかったものの、ビリにはならなかったし、途中までは快走を見せていました。その偉大さはもう涙でした。自分に置きかえてみて「オレなら、とてもやっていられない」とサジを投げたでしょうに、スーちゃんは頑張ったのです。「馬は人によって育てられ、人は馬によって育てられる」というのは、まさにぼくの実感でした。

 「スーちゃん」というのは、アメリカ遠征のさいに世話になった現地の通訳役の婦人が呼び始め、やがて関係者もそう呼ぶようになったとのことです。野平祐二スピードシンボリの馬上で泣いたことは一度や二度でない、とのことです。
 一方で、調教師になり巡り会ったのが、母父スピードシンボリ、日本競馬史上最強馬との呼び声もいまだなお強いシンボリルドルフ。「善」と「美」のホースマンのもとに、「真」の象徴みたいなサラブレッドが現れるのだから面白いものです。

 シンボリルドルフは、とにかく強かった。理屈抜きに強かった。強い馬とはこういうものかと思いました。精神的にも肉体的にも強靱さを持ち合わせていました。不必要なものをすべて取り去った、ハガネのような筋肉の持ち主でした。

 スーちゃんがシンの強さを持ちながら、気立ては優しいのに比べ、ルドルフは「オレは天才だ」とばかり気位の高い馬です。スーちゃんは引っ込み思案で、遠慮がちであるのに対し、ルドルフは反発のしっ放しで、「お前ら、余計なことをするな」という態度です。馬房にいるときも、「ここはオレの場所」という顔をします。

 いわゆる競馬ファン一般に浸透している“皇帝”シンボリルドルフの姿そのものといっていいでしょう。ちなみに、去年テレビでシンボリルドルフを見たメモがありましたので、日記から引用します。

でさ、その皇帝陛下にさ、佐藤藍子がさ、あの佐藤藍子がさ、ニンジンふりふりして、「ルドルフ〜! おいで〜!」とか言ってやがってさ、おい、ふざけんな、あそこにおわすは人より偉いサラブレッドだぞ、皇帝だぞって憤慨したんだけどさ、憤慨するまでもなくさ、ルドルフ完全に佐藤藍子黙殺、黙々と草をはむわけよ。さすが皇帝。

2007-11-19 - 関内関外日記(跡地)

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 スピードシンボリや皇帝シンボリルドルフをしても、またディープインパクトメイショウサムソンでも通用しなかったヨーロッパの最高峰(……いや、タイキシャトルとかシーキングザパールとかアグネスワールド、あと、エルコンドルパサーも惜しい……、ノン、ノン、それは外国産馬だ、ということで。ええと、ドバイも香港もシンガポールもオーストラリアもおいといて、武豊自身の海外G1も置いといてとりあえず凱旋門賞あたり、ということで……といろいろ注釈をつけなくてはならないのは、嬉しい話ではあるが)。それについても語ります。

 ぼくが初めて海外遠征した豪州、あるいは米国で体験したときは、「これなら、日本産馬でも勝てるかも……」という、自惚れがありました。しかし、その後英国やフランスに滞在し、向こうの世界に実際に入ってみると、まったく彼我の実力差が大きいことを痛感したのでした。
 向こうの馬場は、日本に比べてかなりきついので、前半は馬をためておき、最後の直線に入って、一気に矢のように走らせます。それを外から見ていると、前半のスローペースに惑わされ、「なんとか彼らと太刀打ちできる」と思い込んでしまうのですが、いざ競走してみると、圧倒されるのです。
 つまり、馬をためることの難しさ、それを最後に爆発させるテクニック、そしてなにより、それをやってのける馬の実力―それが揃っていないといけないのです。とかく駆け引きに目が奪われがちですが、競馬の神髓はタイムを競うことでなく、いかに人馬一体で走るかです。

 この、人馬一体。無論、武豊とて、彼自身述べるようにそんな風になることもある。そして、日本の競馬では誰にも負けないという自負もある。しかし、欧州でそれができるかどうか。馬が欧州の馬場と一体になり、騎手が欧州のレースと一体になる。そのあたりなんでしょう。スピードシンボリも、欧州で調教するうちに、走り方が変わったという。そんなこともある(こないだのジャパンカップのサムソンは、血統が目覚めて欧州仕様になっていたとかいうことがあったりして)。ディープですら、ではないく、ともかく挑み続けることでしょう。日本の馬場とヨーロッパの馬場、オールマイティで最強級なんて馬はなかなかいない。そのあたりの、腰の据え方、それが問題になってくるでしょう。
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競走馬は人間が作った最高の芸術品といっていいでしょう。とすれば、それにふさわしい乗り方、レース運び、すべてが優雅でなければならないと信じます。

 長くなりましたが、最後も野平さんの言葉で。今後日本中央競馬が、ヨーロッパや地方騎手の影響を受け、もっとガリガリ、ガンガンやりあうようなものになるかもしれない。ファンとしてはそれも見たい。しかし、一方で、このくらいのこと、サラリと言ってのける、そんなかっこいい騎手にも出てきてほしい、そう願ってやみません。また、武豊に続いてこの手の番組に出演できる、そんな騎手に出てきてほしいと、そう願います。
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