自分が哲学に入れないのは日本語のせいだ

 いわゆる哲学、西洋哲学の本というのは読めたためしがない。いや、本を開いて単語と文章に目を通して本を閉じることはできる。できるけど、読めたと思ったためしがない。だいたい、ことばの意味がわからない。参ってしまう。なんとなく字面をおって、あいまいな漢字の意味をなぞったふりして、それで終わる。「なんかむずかしいもん読んだな」というだけで終わる。
 思うに、これは西洋思想や西洋哲学とのたたかいではなくて、漢字、漢語とのたたかいではないのか、と思う。いや、漢語をふくむ日本語のありかた、構造とのたたかいのように思える。もとのやつが何をいっているかということについて、いったん漢語になって、あいまいなまま、日本語のわたしを上滑りしていく、日本語のわたしは上滑りしていく。石川九楊は『二重言語国家日本』(あれ、日記検索してもメモが見つからん?)でこんなことを書いていた。

 政治語や思想語や抽象語については、詩語のように自家薬籠中のものとならず、中国語頼りで厚みがなく、水準が低いまま残り(略)、詩語や具象的表現については、格段に水準が高いという、均衡を欠いた特異な日本語が生まれることになったのである。

 ここだけ取り出すとすこし誤解をまねきそうなところではあるけれども、この優雅で感傷的な日本野球について、なにやら実感できそうな気がしてしまうのだ。
 ただ、この日本人の日本語のかたがたが多く哲学的なものに立派にとりくんでいる歴史を見れば、日本語のせい、などということはとてもじゃないがいえない。そのせいにしたいところだけれども、そうはいかないようにおもえる。むしろ、基礎がないのにいっぱしに哲学入門などに入ろうとするわたしがよくない。足りていない。キャッチボールもできないのにサードの守備につくようなものだ。ピッチャーは涙目だ。
 だから、まずキャッチボール教室に入る必要がある。でも、キャッチボール教室かと思って扉をたたくと、いきなり逆シングルをもとめられたりする。どこで基礎訓練すればいいのかわからない。ひょっとすると、まず立ち上がって歩くとか、かけ足してみるとか、そんな身体のなりたちからはじめなければいけないのかもしれない。どこまでもどればいいのかわからない。母親の胎内だったらどうしよう。それとも、ひょっとしてわたしは左利きなのにサードを守ろうとしているのだろうか? あんがい左利きのサードが多いのかもしれない。
 ……などと、つらつら考えながらあるいてきたのは、哲学っぽい本を読んでいるからだ。西田幾多郎の『善の研究』だ。国語が倫理かなにかの教科書で、「日本人の哲学者」というと、とりあえずこの名前ひとつあるくらいだったかとおもう。ともかく、ながく興味をひく名前ではなかったのだけれど、鈴木大拙まわりをあたってみて、ここにいかないわけにはいかないというのは当然のはなしだとおもう。だからはわたしは『善の研究』を『禅の研究』と勝手に読みかえて、冒頭から「これは禅の言うことだ」という思いこみによって読み進めている。わけがわからなくなったら、絵を描きこんでみたり(抽象画?)、「これは道元が鳥と空についていってたことだ」とか「これは盤珪の繰り返しいってたことだ」などと何とかわかろうとしている。そうしながら、わたしはますますわかろうとしているし、そうやってますます世界は分かれていくのだろうし、ますますわたしは賢くなっていく。ますます思想のことや禅のことがわかっていくのだろうし、ますます世界はわかっていくのだろうと思う。ますます蝉のことをわかっていくと、やがて夏がきてとびまわることもあるのかもしれない。そんなことを考えながらねむりの中に落ちていくでわたしは、夢の中ですばらしい逆シングルをみせる、ホットコーナーで喝采を浴びる。