「神隠し殺人」に思う自分の想像力の限界

神隠し殺人初公判(1)】動機は「性奴隷にしたかった」 交際経験ない被告

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090113/trl0901131112003-n1.htm

 産経新聞が詳細な公判記事を載せて再度注目を集めた「神隠し殺人」。「神隠し殺人」などというと、浅見光彦の一人くらい出てきそうな響きであるが、その実、絶対に浅見光彦が関わらないような酸鼻をきわめる内容なのであった。

MSN産経の報道の仕方について

 いきなりちょっと話逸らします。とりあえずブクマにも書いたけれども、産経がこのように詳細な公判記事をウェブで公開するのはよい事業だと思う。このように陰惨な内容の事件であったとしても、我が国の司法が向き合う問題は我ら国民も完全に無関係でいられるわけでもなく、全員が全員読まねばならん、知らねばならんということはないにしても、読みたいやつが読めるくらいのものであっていいとは思うのだ。
 ただね、この内容がたとえばフィクションであれば18禁級の代物であると思う。もちろん、事件はフィクションでないし、裁判に年齢制限はない。ただね、やっぱりそこに何の配慮もいらないのかといえば、ノーだ。「この記事は残酷な表現含まれており〜」くらいのクッションページひとつ置くくらいのことはしていいはずだ。あと、一般紙、それも大手に数えられる新聞紙なのだから「性奴隷」、「セックス調教」なんて言葉をね、トップページにずらずらと並べておくような、そういうセンスはどうかと思う。表現の自由報道の自由みたいなもんはあるし、別にこういった記事を規制すべきとは言わない。むしろ、各紙それぞれにやってみてもいいと思う。ただね、センス、配慮、そこらへんを求めるのも筋違いではないと思う。

俺は欠如による犯行だと思っていた

 さて、本筋に戻す。この事件について。俺は遺体解体の内容などを読み、この犯人が強い思いや怒り、欲望、そんなものを抱いているようには見えなかった。逆にあまりにも何かを欠いているがゆえに、このようなことができる。そういう風に思った。最初に強姦しようというのは衝動や欲望だろうが、そののちの、この陰惨さをやってのけるさまは、「死体を隠さなければ」という合理的な目的を果たすための、異常なまでに生理的な抵抗感から罪悪感、何かがすっぽり抜け落ちた人間のすることではないか、と思ったのだ。別に「欠けているから」免罪されるとか、そういう話ではなくて、ともかく、「ここまでやる奴は、いわゆる変態とは違った別の何かだ」という感想を持ったのだった。

ところがどっこい、そういう趣味だった(らしい)

ダルマ娘が好きですが残酷なのは控えめです。
ひゃぁもうガマンできねぇ
【キーワード】
だるま、ダルマ、達磨、四肢切断

http://uratan.jp/hotnews/2009/01/7625/

 うひゃぁ、この記事読んでびっくりした。(実は、産経の記事は長いので最後まで読んでなかったから、同人活動云々はここで知った)。俺が勝手に「解体については欲望とは別の、サイコパス的(?)欠落によるもの」とか思っていたのは大間違いだった、と、今断言できるかどうかはちょっとわからんが、まあこの同人誌やmixiが本当だとするならば、少なくとも解体が彼本来の趣味の方向性と無縁ではないということが言えると思う。ひょっとすると、最初からこういった行為が目的であって、自らの欲望を果たしたと言えるのかもしれない。

いやね、こういう一致もあるんだね

 というわけで、俺は「変態的な欲望でここまではできないだろう(できるならフィクションだろう)」とくらいに思っていたのだけれども、それは甘かった、といえるかもしれん。いや、想像力の領域、趣味の領域で四肢切断だとか達磨女だとかのジャンルがあることは承知だ(アブノーマル無題……たまにこの記事の‘ケモショタ四肢切断’だとか‘複乳妊婦だるま女’だとかにアクセスしてくれる人、期待に応えられなくてごめんなさい。あと、関係ないけど達磨っつったら雪中断臂だと思う今日このごろ)。また、古今東西の犯罪史をひもとけば、こういう超弩級の犯罪者、ド変態がいることも承知だ。ただね、うーん、やっぱりその、そういうが、スッと「神隠し殺人」で出てくるとなると、ちょっと驚く。
 おそらく、こういう二次元趣味の人、グロ趣味の人の多くは(ちょっとどう調べていいのかもわからんが)、現実のこういうものに耐えられないのではないかと思う。あんまりこれに耐えられる人間はいないと思う。そういう意味で、これはレアケースだろう。ただ、もしも三次元のそれに耐えられるほど強烈な指向と嗜好を持った人間がいたとして、彼が二次元でそのジャンルに向かおうというのは、それ以外のジャンルに向かうのに比べれば、可能性として高いといってもいいのではないだろうかと思う。

内心と表現と行為

 だったら、そういう趣味を警戒し、あるいは禁じればいいのか? そういう話でもない。それをやりだすと止まらん。そもそも、内心が先にあって、そこで止まる人間もおれば、なにかのきっかけに一気に行為に行く人間もいるだろうし、あるいは表現の領域で満ち足りて、犯罪行為そのものには完全に無縁の人もいるだろう。少なくとも、表現の段階で(その表現そのものに違法性がない限り)禁じたり、罰したりしてはいけないように思う。
 が、このあたり正直よくわからん。ちょっと前にヘイトスピーチ規制は法で定められるべきだろうかどうかということを疑問に思ったりした(http://b.hatena.ne.jp/goldhead/で「ヘイトスピーチ」って検索してください)が、まあそれとは話の段階が違うのかもしれないが、この、表現と法というあたりは、なんともわからんところがある。
 まあ、しかし、法はともかくとして、やはり趣味や嗜好には堂々と履歴書に書けるものと、そうでないものがあって、どちらが優れているとか、正しいとかいうことはなくても、その差はあって、そこらあたりから生まれる振る舞いいかんによっては、そうでないものが必要以上の排除などを受けることもあって、だからそのあたりは、その趣味のために、その振る舞いは繊細なコントロールが必要なもののようにも思えるが、たとえばインターネットというある意味平板な世界では、そのあたりがなかなか難しい(新聞社のサイトも、超マニアのサイトも、検索結果で同列に並ぶことがある)わけで、なんともまとまらないままに終わる。

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