だから俺は村上春樹を断固応援するんだ!


 村上春樹に勝手にバット持たせて、「さあ行け!」というのも乱暴な話だと思ったので、もっと考えてみた。考えてみて、やっぱり俺は村上春樹をポジティブに応援するという気になった。
 前提条件として、村上春樹が今、イスラエルに行きますという意味を理解していないはずがないということだ。そして、村上春樹イスラエルパレスチナの問題について、それなりの脳味噌とハートを持った人間であるということだ。これは俺が彼の作品を読んで想像したものだ。勝手に創造した村上春樹像だ。だが、とりあえず俺はそう思っているんだ。
 だから、俺はその上でポジティブに村上春樹を応援するんだ。「うまくいかなかったら虐殺加担リストだぜ」なんて言わない。減点方式の査定じゃ駄目なんだ。それじゃあナイスな世界にならない。ナナリーの望んだやさしい世界にはならないんだ。
 だいたい、今、イスラエルに行って(行くんだよね?)、エルサレム賞をもらうってのは、ほんとうにたいしたもんだ。飯喰ってたら急にダースベイダーのテーマが流れてきて、目隠しされて気づいたらイスラエルって話じゃないのだ。自覚的に、能動的に、火中に飛び込むということなんだ。もしも間違ったら総スカンだ。「やれやれ、僕はカフカの名のついた賞以外は受け取らないのに」とかいってスルーしてもよかったんだ。それでも春樹は行くんだ。
 そしてもちろん、村上春樹フィデル・カストロでもチェ・ゲバラでも秋田明大でもないんだ。演説家でもアジテーターでもないんだ。言葉という武器をもっていても、それは小説がホーム・グラウンドだ。だから、村上春樹なんて、演台に立たせてみたら、たんなるかよわい60歳のおっさんにすぎないかもしれないんだ(実は演説巧者だとか、そういう話があったらごめん)。
 だから俺は、失敗してもいいと思うんだ。敵地エルサレム(勝手に「敵」とか言ってる時点で俺が道を踏み外している可能性については認める)に単身乗り込んで、モサドの監視が光る中で、いったい何ができるというのだ(ゴルゴの読みすぎ)。ひょっとしたら負けるかもしれない、何もできないかもしれない。むしろ、必然的に負けるかもしれない。
 でも、リングに上がったことがえらいんだ(あくまで俺の「前提条件」の文脈であれば、だけど)。俺はそこに尽きてもいいとすら思うんだ。金子賢はぜったいに負けるとわかっていて、チャールズ・“クレイジー・ホース”・ベネットのいるリングに上がったんだ。そのマッチメーク自体が問題だ、という見方もあるだろう(今回の春樹の件も)。でも、やっぱりそう決まってしまって、クレイジーホースのいるリングに向かう金子賢はえらいと思うんだ。クレイジーホースは、たとえばグレイシー一族の誰かみたいに、あっさり関節技で終わらせてくれるわけはないんだ(※故ハイアンを除く。エリオさん、天国でハイアンを鍛えて、最強かつ最凶のグレイシーにしてやってください)。
 だから、ひょっとして、バッターボックスに立ってみたら、あまりの速球に何もできないかもしれない。逆転ホームランどころか、三球三振に終わるかもしれない。あるいは、イスラエルの狙い通りに、流し打ちしようとするのを見透かされて、詰まらされてゲッツーということもあるかもしれない(説明するまでもないけれど、あえて村上春樹イスラエル批判をさせておいて、「このような反対意見者にも賞をやるイスラエルはすごく寛大」というプロパガンダに使われてしまう、ということの比喩)。

 でも、それでもいいんだ。ハートの一端を見せてくれたら、それでいいんだ。だからせめて、バットを振ってほしいんだ。メルカバの放つ剛速球に怯えて、見逃し三振に終わるかもしれない。でも、キャッチャーミットに砲弾がおさまって、審判がコールしたその後でいいから、バットを振ってほしいんだ。ブレーキランプ六回点滅させて「コ・ロ・サ・ナ・イ・デ」のサインを送るくらいでもいいんだ。それで、もしも、親アラブからも親イスラエルからもバカにされてしまっても、俺は人間村上春樹を手放しで讃えるんだ。もしも、イスラエルでの失敗を理由に、読みもしないのに村上春樹の作品をこき下ろすような人間が出てきたら、それに対してはブーイングしてやるんだ(逆に、万一「イスラエル万歳」をやってみせても、作品は作品、という見方もできるのだろうが……、俺にはできるかどうか)。

「ハートを持たずに生まれてきたのは、あなたのせいじゃないわ。すくなくともあなたは、ハートを持った人たちが信じていたことを、信じようとした――だから、あなたもやっぱりいい人なのよ」
カート・ヴォネガット『ジェイルバード』

 人間誰しもが、サッコやヴァンセッティにはなれないんだ。勇気や賢さ、強さ、優しさ、そんなのに持ち合わせがあるやつなんて、あんまりいないんだ。いや、いるかもしれないけれど、少なくとも、俺にはないんだ。ないけれど、俺はやっぱり信じたいんだ。信じて、いつの日かなにかやらかしてみて、そのとき、「お前は頭の悪い臆病者で肉体的にも貧弱でハートも博才もないやつで、やらかしたことはすごい間違いだったけど、ほんのちょっぴりいい人だったぜ」と言われてみたいんだ。
 だから、たとえば、大きく方向を間違っても、なしたことが意味なかったり、あるいはマイナスになってしまって、それは認めなきゃいけなんだ。減点方式で採点したら駄目なんだ。頭が悪かったり、ハートが無かったりする人間を、萎縮させてしまうだけなんだ。疎外してしまうだけなんだ。だから、今まで革命なんてものが成功したためしはなかったんだ。まず、ょゎぃゃっ、ぁゃιぃゃっが救われなければいけないんだ。っょぃゃっは後からでいいんだ。ゅぃぃっ ぉゃっ ぃゎιなんだ。力でねじ伏せようとか、優れた思想で折伏しようとかいうのは、けっきょくナイスな世界を作りはしないんだ。自分の信じるものの正しさゆえに、今ここで相手を、自分が間違っていると考える相手を拝んでみせても、それでも結局は、最後の最後には自分が勝つのだという、不寛容に勝つ寛容というもの、絶対の信念がいいんだ(だったら、村上春樹エルサレム賞をすんなり受け取るのも、ひとつのあり方だろうか……?)。
 ……というわけで、話が逸れすぎたんだ。もう、村上春樹の話なんてしていないのかもしれない。でも、俺はイスラエルに一人旅立つ小説家のことを考えていて、そんな風に思ったんだ。

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