私が愛したいということについて語るとき語ること

あなたを愛したいだって?

 ある歌を聴いていたら、歌詞に「あなたを愛したい」と出てきたわけですね。「愛したい」と。歌詞の前後を見るに、とくに問題はないようなので「愛せばいいじゃねえの? あなたを愛する」でいいじゃねの? と、みょうな引っかかりかたをしてしまいました。そのことについてつらつら考えてみました。
 まず、「愛する」というのが、行為を指ししめすという、そういうことはある。有り体にいえば、「セックスする」というあたりを指ししめす場合もあるわけで、それについてはちょっと除外しておきます。この場合、あくまで心の問題、心のはたらき、うごき、意志、そういったところで考えてみたい。
 すると、やはりどこかおかしい。ポジティブなものとして、「愛したい」というのは、何か問題があるのか、ということになるようだ、と、そう思えたわけです。

行為をしたい

 これが、行為についての願望ならば、「たい」というのがどういうことかはすっきりします。「殺したい」(けど、殺人罪に問われるのは嫌なので殺せない)、「殴りたい」(けど、屈強なSPにまもられているからむずかしい)……などなど、なにか物理的な、あるいは時間的な、そういった理由が存在する。したいと思っても、できないこともある。なにかに対する願望は、現状の欠如を同時にあらわしている、そのように思いました。

内心のはたらき

 では、一方で、心の中のはたらき、意志、そういったものについてはどうでしょうか? 愛したいのならば、愛せばいい。憎みたいのなら、憎めばいい。恨みたいなら恨み、評価したいなら、評価すればいい。……いや、そう簡単なものでもない、と思えてきます。
 「愛したい」(でも、好きでもない男との間に生まれたこの子を愛せない)、「憎みたい」(でも、憎めない)、「恨みたい」(でも、恨めない)、「評価したい」(でも、評価したくない)……そのような、それもまた、心の中のはたらきがあるようです。二重性といいますか、ぶつかり合ってどちらかが勝って出てきますですとか、葛藤ですとか、アンビバレントですとか、そういった心のはたらきです。
 ですから、「愛したい」ですとか、「恨みたい」ですとか、そのあたりは、心の中で一回転して出てきたり、ぶつかり合ったすえに出てくるものですから、少し意味が重くなるといいますか、あるいはそのせいで、婉曲的になるというところもあるかもしれない。逆に、「憎めない人」などというのは、かなりポジティブになるように思えますし、「愛せない」というのは、かなりネガティブのような、そのような印象もあるようです。
 と、いうわけで、冒頭の歌に話を戻しますが、さしたる「愛せない」事情や内心の葛藤なしに、「愛したい」というところに、自分は引っかかってしまったのではないかと、そのように考えたのです。

愛するって心だけのことか?

 ……が、次の段で脇においた、行為としての「愛する」にも話を戻したくなりました。「愛する」というのは、はたして誰かの内心の中のみの意志を指ししめすところのものでしょうか。日々の中で、その対象と語らい、笑い、ときにはげまし、ときに叱る、もちろん、エロいことも入ってくる、そういった行いといいますか、行いのうちに作られる関係性全体、関係の総体が「愛する」ではないかと、このようにも考えられるような気もしてきます。
 そうしますと、「あなたを愛したい」というのは、たんに「私は内心であなたを愛するという意志を持ちたいと思う」というばかりにあらず、(今は欠如しているかもしれないが)今後にわたってあなたとの関係を作り、維持していきたいという、行為に関する願いといいますか、誓いといいますか、誓願のような、そのようなはたらきが出てくるように思えます。そうすると、「あなたを愛したい」というのは、また一回りして大きな意味を帯びてくる、その意味で、私のひっかかりは乗り越えられると、そのように考えてもいいのではないでしょうか。

愛すると愛したいの間に横たわるもの

 しかし、「愛する」と「愛したい」の間というのはなかなかさまざまの機微を含んでいるように思います。あるいは、「信じる」と「信じたい」の間というものもあると思います。たとえば、人が神(のような何か)を「信じる」というときと、「信じたい」というときの差というものです。「信じたい」のに「信じられない」とすれば、その「られない」はどこにあるのか。あるいは、「信じたい」と発願した瞬間に救われているのだ、それはもう「信じる」の中だ、といえるのかどうか、など、そこにある種の境界線といいますか、重なり合う層があるという、そのような予感もあるのですが、いったいどのようなものでしょうか。今日はここまでにしたいと思います。ごきげんよう

関連______________________