よくやったじゃねえか、村上春樹、よくやったぜお前! そして打順は巡ってくるんだぜ、俺、世界!

 村上さんは、授賞式への出席について迷ったと述べ、エルサレムに来たのは「メッセージを伝えるためだ」と説明。体制を壁に、個人を卵に例えて、「高い壁に挟まれ、壁にぶつかって壊れる卵」を思い浮かべた時、「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と強調した。

http://www.asahi.com/culture/update/0216/TKY200902160022.html

一、イスラエルの(パレスチナ自治区)ガザ攻撃では多くの非武装市民を含む1000人以上が命を落とした。受賞に来ることで、圧倒的な軍事力を使う政策を支持する印象を与えかねないと思ったが、欠席して何も言わないより話すことを選んだ。

一、わたしが小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵のことだ。どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。

一、高い壁とは戦車だったりロケット弾、白リン弾だったりする。卵は非武装の民間人で、押しつぶされ、撃たれる。

一、さらに深い意味がある。わたしたち一人一人は卵であり、壊れやすい殻に入った独自の精神を持ち、壁に直面している。壁の名前は、制度である。制度はわたしたちを守るはずのものだが、時に自己増殖してわたしたちを殺し、わたしたちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる。

一、壁はあまりに高く、強大に見えてわたしたちは希望を失いがちだ。しかし、わたしたち一人一人は、制度にはない、生きた精神を持っている。制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ。

http://www.chugoku-np.co.jp/NewsPack/CN2009021601000180_Detail.html

 よくやったじゃねえか、春樹、おまえ、よくやったよ。踏み込んで打ったよ。クリーン・ヒットだよ。人類の歴史が、言葉の歴史が、たとい必敗の歴史であろうとも、「欠席して何も言わないより話すことを選んだ」って、それが尊いと、俺は思うよ。ベリーナイスだよ。
 さらに言えば、「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても」ってのがナイスだよ。ここらあたり、たとえばイスラエルパレスチナの軍事的・物質的な非対称性を理由に、「これはイスラエル擁護だ!」と突っ込まれるかもしれない。しれないけれども、いいと思うよ。「どちらが正しいか歴史が決めるにしても」だよ。理知による善悪二元の分断を超えて、人間の「あるべきようは」(明恵)を問うような、そんなもんだと、俺はそういう風に受け取ったよ。
 それで、小説家がその、卵の側に立つところに価値があるのかどうかというと、これは是非のわかれるところかもしれねえが、少なくとも村上春樹が、「俺は小説家ってのはそういうもんだ」と主張する、そのところに、ペンと紙、あるいはワードプロセッサーのないところでの、決してかよわいおっさんではないというところの、矜持を見せてくれたような気がするぜ。
 ……などと、まあ、まだ全容はわからん。これらは記者がまとめたものだ。全文は読んでいない。とりあえず英文で出るのだろうか、俺はそれほど英語が読めない。まだ先かもしらん。ただ、現段階で、このテイストで記事が配信された、最低限それだけのヒットを見せてくれたところで、俺は断固!村上春樹を支持する。「欠席して何も言わないより話すことを選んだ」というその一言で、もういいんだ。よくやったぜって思う。お前はよくやった、あとは世界の番だ、俺の打順だ、たぶん、そういうことだ。
 もちろん、村上春樹も、今後の村上春樹が、今度の村上春樹とは無縁ではいられない。今回は、文学の側が文学の名目で政治に引きずり出されて、逆に政治を文学側からひっぱたいてみせたわけだけれども(これを含めてイスラエルの思うつぼ、という可能性はあったとしても)、今後は文学に政治が、政治思想、政治性の視線が向けられてしまう(どんな作者のあらゆる作品がそうであるにしても)。それは避けられない。吉本隆明反核運動だかにコミットした高橋源一郎になんか言ってたと思うけど、なんかそういうことも出てくる。そころあたりもあると思う。
 それで俺は、なんだかヴォネガット的失敗でもいいぜって、自分でも言い過ぎて、それにひきずられて、「ど派手な失敗やらかさねえかな」くらいのテンションになっていたけれど、それは反省するぜ。まあ、だいたい、村上春樹みてえなのは、そんなに失敗しないんだよな。たぶん、きっと。
 それで、よくわからねえが、このあたりの報道に接していて、俺は田村隆一の詩が思い浮かんだ。ぜんぜんピントが外れてるかもしれねえが、ちょっとそう思ったので、その一部を、書き留めておく。

悪だけが実在するときみが云うのなら
歴史はこうささやくだけだ
「巨大なものはすべて悪である」

http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/trp/051.html

新年の手紙(その一)

きみに
悪が想像できるなら善なる心の持主だ
悪には悪を想像する力がない
悪は巨大な「数」にすぎない

材木座光明寺の除夜の鐘をきいてから
海岸に出てみたまえ すばらしい干潮!
沖にむかってどこまでも歩いて行くのだ そして
ひたすら少数の者たちのために手紙を書くがいい

http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/trp/073.html

 あと、チャールズ・ブコウスキーのこんなのも(ネアンデルタール人とそっくり、だってさ)。

もしもわたしが改宗したり、信仰したりとすれば、悪魔をひとりぼっちで地獄の炎に包まれたまま見捨てなければならない。それはわたしとしては親切とは言えない。というのも、スポーツ競技などでわたしはほとんどいつも弱者の方を応援しがちで、宗教上の事などでも同じ病癖に襲われてしまうからだ。わたしの感情といえば、不具者や責め苦に苛まれた者、呪われた者や堕落した者に歩み寄る。それは同情などからではなく、同胞意識からだ。

『ブコウスキーの酔いどれ紀行』チャールズ・ブコウスキー/中川五郎訳 - 関内関外日記(跡地)

 自分が否応なく壁であることに気づくこと、卵の側にいられないこと(「いる」と言うのはたやすい)。ここでブコウスキーが「同胞意識」と言うとき、それは彼の書いてきたものが裏打ちしている。そこに文学と思想と血肉の一体があって、俺はブコウスキーが好きなんだ。

関連______________________

追記______________________