みんな読もう、『足もとの自然から始めよう』(デヴィド・ソベル/訳:岸由二)

足もとの自然から始めよう

足もとの自然から始めよう

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[書評]足もとの自然から始めよう(デイヴィド・ソベル): 極東ブログ
 こちらの書評を読んで、ぜひとも買わねばと思い買い求めた一冊(経費で)。まったくもって、買ってよかったと思う。読めてよかったと思う。俺のようななんでもないものが言うのもなんだけれども、次のような人たちが読めばいいと思う。自然保護活動をする方、子供たちを教育する立場にある方、むしろ自然保護活動や環境問題になんとなく反発を覚える方、そして、古舘伊知郎
 そうだ、古舘、読め、古舘、読むんだ古舘。それでもお前が絶望を振りまくとするのなら、お前をそこまでスポイルしたのは何なのか、それを見るんだ。そして、俺も古舘のようにスポイルされているかもしれないし、日々子供たちもスポイルされている。古舘がスポイルされ、古舘がスポイルする、そんな悪循環を断たねばいけないんだ。何で? 愛で。

知識や責任より先に

 重要なことは、子どもが自然の世界と結びつく機会をもつこと、自然を愛することを学び、自然に包まれて居心地の良さを感じることだ。環境破壊について教えるのはそれからでよい。ジョン・ブラフは「愛のない知識が根をはることはない。しかし、初めに愛があれば、知識は必ずついてくる」と語る。私たちの抱える問題は、愛ある絆が花開く前に、知識や責任ばかり引き合いに出してしまうことにある。

 環境保護活動家のほとんどが、彼らの保護活動への献身には、二つの要因がかかわっていると説明した。まず、「子ども時代あるいは思春期に、鮮明に記憶に刻まれている自然あるいは半自然的な場所で多くの時間を過ごしたこと」、そして「自然への敬意を教えてくれる大人がいたこと」だ。凄惨な自然を突きつけられたことで環境保護に身を投じた、などと語ったものは誰一人としていなかった。
 なんと簡単なことだろう。熱帯雨林をもち出すことも、環境保護活動もいらない。手本となるような責任ある大人と自然の世界にひたる機会があればいいのだ。

 本書の主張はだいたいとてもわかりやすい。まだ十分な下地のできていないガキに、環境破壊の悲劇、絶望的な地球について教えることは、かえってそういった問題への忌避を呼び起こす。もう、環境についての意識は十分共有されてるんだから、アプローチの方法を考えようってさ。煽るだけでいい段階はもういいじゃねえのって。
 それで、小さなガキには、まず足もとの一歩から、身の回りのランドスケープ(景域)からだぜって。そこで、自然といい関係にならなきゃ、いくら熱帯雨林の危機を教え込んだところで、そんなのは返って逆効果だ、スポイルするだけだ、みてえな。実際に、ドイツで、がつんと環境教育したあと、どうなったかっていうと、かえってボランティアが減った、若いやつの関心が逸れてったと、そういった例なんかが、まあデータとしてどの程度の精確さがあるのか、十分なのかなんてのは、ちょっと俺にはわからんが、まあそういう例も紹介されている。
 まあ、もちろん、身の回りにどんだけ自然があんのよ? って話もあるかもしれねえが、それなりにあるだろう。たとえば、上の引用の下の方、これはちょっと、かなり恵まれた「環境保護活動家」のケースかもしれねえし、実際に汚染の中で苦しんで活動家になる奴だっているだろうけれども、まあそうでないのならば、教室の中で(そっちの方が楽だからといって)、ビデオ映像やパネルとかで、壊れゆく地球見せてもしゃあねえよって。そこんところだ。滅び行く動物のグラフを見せるより、たとい動物学的に、科学的に不正確でも、たとえば童話の方が、ずっと子供によく効くんだぜって、そっからはじめて、やがて土台ができたら、その段階に応じて、いろいろ咀嚼させていけば、よく吸収されるってさ。
 そして、その傾向はなんというか、紹介されているデータというよりも、自分の経験というか、心というか、魂というか、そういうところで、「そういうのあるんじゃねえの?」という、そういう同感が生じるんだよ。

フォビアよりフィリアを

 そうだ、俺が、この本いいんじゃねえのか? やっぱりよかった、と思ったのは、先に危機や悪を教え込むことによって、ガキがスポイルされる、その弊害、その目的が、正義なら正義を向いていても、やっぱり先に、フォビアにしちゃいけねえよ、フィリアを先に形作らせなきゃいけねえよって、そういうところだ。
 俺は、子供のイノセンスというか、そのあたりについて、ほとんど盲信に近いものを持っていて、なんというか、性善説といってもいいかもしれないが、人間はほっといたら、どちらかといえば、あくまでどちらかといえば、あんまり分別を覚えすぎないところでは、あるべきようはに従って、不生の仏心にしたがって、いや、別に仏心といっても仏教という宗教性っちゅうよりも、まあなんというか、「人間そもそもそれなりにポジティブなものだんだぜ」というか、「悪いことしても、それをそいつに全面的に負わせるほど、個人のすることなんてものに罪はねえよ」っていうか、そんなところがあるんだ。
 俺はかつてUnspoiled Monsterだった自分を愛するし、まだ自分の中にUnspoiled Monsterがいるのならば、それを肯定せずにはおれないんだ。そして、あらゆる人間のUnspoiled Monsterであるところを、俺はどちらかといえば、肯定すべきものだと思うし、間違いが多々起こって、恐ろしい間違いもあったとしても、たとえばそれを否定して、卵を壊して、壁の側に立つわけにはいかないんだ。俺はあまり物事を理路的に考えることができないし、知識もないし、寄って立つ信仰もイデオロギーもないけれど、かすかに、わずかに、その方向だけは、確実にあって、それに寄り添うような考え方には惹かれるし、それに反するような考え方には、ちょっと疑問から入ってしまうんだ。でも、この人間、どっかしら、どう反目しようとも、どっか落ちつくところがあると思う。それは56億7千万年後かもしれないし、まあそれでもいいんじゃねえのって思う。


環境問題ばかりでなく

 それでもって、だから、この話だって環境保護系ばかりじゃないよって。どっかしら、何かいろいろなものに繋がっているんじゃねえの、って。それで、まあちょっと一つ紹介されていたのが、算数教育の話だった。

 ひとつの大問題として「早すぎる抽象化」がある。私たちはあまりに早くから、抽象的な事柄を教えてしまう。

早急な抽象化が、小学校低学年の間にマスフォビアを生む主な原因のひとつであることに算数の教育者たちは気づいたのである。

マスフォビアを起こした子どもたちが大人になってからの述懐によると、多くの場合マスフォビアは小学校3、4年のつまづきを覚えた時に始まり、それ以降努力する気も失せてしまったのだという。そして算数がより難しくなると、彼らはそれを無視した。心理学でいうところの「解離」が起きてしまったのだ。

 はっきり言って、たぶん俺は完全に算数にぶっつぶされたマスフォビアだったんだけれども([2008-12-08 - 関内関外日記(跡地))、なんとなく抽象性につぶされた気はしないんだけれども、まあそれで、面白かったのは、ある教授の意見でさ、「もしガキが六年生になるまで一切算数を教えないでおいてくれたら、そのあと八週間で算数の全カリキュラムを教えられるぜ」みてえなものでさ。まあ、それは実験のしようがないって話なんだけれども、なんかそういうのもあんのかなというか(もちろん、その六年間でしかるべき身体による経験みてえなもんが必要で、真っ白い部屋に監禁されていたら無理だろうけど)。たとえば、すごい教育のない環境、野性環境で幼少期を過ごしたあと、教育受けてみたらすげえ伸びて、なんか立志伝中のえらい学者になりました、みてえな話はあると思うだけれど(あると思うだけど、ソースは俺の脳内のもやもや)、そういうのも、下手に知識や分別というものが入り込む前に、その下地ができており、なおかつ知への愛が、もっとこの愛すべき世界を知りたいというような、そういうところが噛み合ったんじゃねえのかとか、そんなふうに思う。
 そして、たとえば算数教育というと、どちらかというとテクニカルな話だけれども、たとえばよ、この本では「環境」だけれども、たとえば、「平和」、「人権」、「平等」、「友愛」、「自由」、「正義」……そういった、なんというか、本来全肯定くれえの価値がある(あるからこそそれを謳うものにはかなり慎重な見方をしなければならない、というのは確かだけれども)はずなんだけれども、どうも眉唾というか、たとえばここのところのネットなんかの風潮にあるような、そういった言葉への懐疑のようなものの根っこも、それらがあまりにも早い段階で、あまりおもしろくねえ学校の、あまりおもしろくねえ教師から、抽象化された概念として押しつけられたような、そんなところがあるんじゃねのかとか。これはたとえば、自分についてもいくらかあるところであって、ひょっとしたら世間は違うのかもしれないが、まあそんなのもあるんじゃねえの、と。教える側の、おもに大人たちが、それが大切だ、大切だと思うあまりに、やばい強い力で、子供にさ、オブセッション、圧迫、プレッシャー、それで逆効果って、ちょっと悲しいよね。
 だからなんというか、愛なんだよ、愛。フォビアよりフィリアだ。エコがよいものであるという大まかな前提に立つのならば、エコフィリアをどう壊さないようにするか(それは、わざわざ生じさせたり、植えつけたりするものであってはならないんだ。不生不滅、人間がそもそも持っているものなんだ、たぶん)、あるいは、地域社会や国家や世界を考えるには、まず身の回りの、トポフィリア(場所愛。イーフー・トゥアンの本を昔読んだんだ。この本では、訳者解説に一言出てきた)から始めなければいけないんだ。自分とエコ不二、トポ不二、自他不二がそこにある、そうじゃねえのかと、俺は思う。まだ汚れていない怪獣は、世界そのものの大きさであって、増えもしなければ、減りもしないんだ。たぶん、そうなんだ。

俺はにんじんになりたい

なぜに昔からの賢者は、大人は子供心を持てということを教えたのか。そうして自分らも、それを尤もと受け入れているのか。エデンの楽園で、イノセントな生活、善悪などを区別しない生活をおくっていたのを、いまさらなぜに恋しがるのか。

鈴木大拙「東洋‘哲学’について」1961

 でも、たとえば俺はもうすっかりスポイルされつくされたおっさんだ。世の中には、よごれつちまつた大人たちばかりだ。分別や悲観で武装されたやつも多い。それじゃあもう駄目なのか? いや、そうでもねえんじゃねえのかって、俺は、ちょっとだけそれで、俺が思い出した本、「あれだ、あの世界だ」って思ったのは、ジュール・ルナールの『博物記』であり、『にんじん』なんだった。まあともかく、『博物記』だ。あれも、たぶん、ルナールが『にんじん』を発見したように、また無心で自然を見ているものだ。ルナールは子供そのものではないけれども、そういう物の見方はできるんだ、感じられるんだ、そういうことなんだ。それが人間の救いだと俺は思うし、誰もが己のなかのまだ汚れていない怪獣に触れることができて、そっからまた始められることだってあるんだ、俺はそう思う。たぶん、仏教に限らず、世界のいろいろな考え方の中に、これと同じものは見いだせるんじゃないのかと思う。
 もちろんそれは、知識や分別から見たら、あまりにも恵まれたものの、おめでたい、脳天気な、そんな話かもしれない。だけれども俺は、おおまかに、そっちの方で、ときには知識と分別の方に立つとしても、また、無自覚に立たされているとしても、その方向へのベクトルがあるかぎり、たとえば俺という個体など大間違いで死んでしまっても、全体的には、そこまで悪い方へはいかない、そうなんじゃねえかと、そこについて俺は無限の楽天家なのだし、人間や世界や地球や宇宙を肯定的に、信頼しているというか、その上でなら、たとえば人間が作ったザ・システムも、壁も、その領分から出て、人間をしもべにすることもないだろうと、システムがぶっこわされて新しくなろうと、なんだろうと、ともかく人間が人間のありようを掴んでいるかぎり、そこそこどうにかなるんじゃねえのという、そこについて俺は絶対的に、永遠の保守だし、どこまでも革命的でいられるような、わけのわからない気持ちになって、ここらあたりでやめておこう。
 最後に、適当にぱらぱらめくった『博物誌』から引用。

とかげ

 背中の石の間からとんで出た小僧め、私の肩へとのぼるじゃないか。彼は私が石壁のつづきだと思ったのだ。なぜなら、私がじっと身動きしないし、塀と同じ色の外套を着ているから。でも、何はともあれうれしいことだ。


 壁―何だか背中がぞくつくぞ。
 とかげ―そりゃおれだ。

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