桑田真澄に気付かされる〜俺は野球に対して残酷ではなかっただろうか〜

今の俺の意見

桑田真澄氏が野球指導者に苦言「そろそろ“気が付いて”もらいたい」。 | Narinari.com経由

日本中、何百というチームを見てきたけど、
子供達を怒鳴り散らしている指導者ばかり。
怒鳴らないと理解してもらえないほど、私には指導力がないんですと、
周りに言っているようなもんだよね。
そんなことも、わからないのかね?
恥ずかしいというか、あまりにもひどすぎるよね。

http://kuwata-masumi.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-ea9b.html

 これに対して、俺はブックマークで次のようにコメントした(余計なところは省いた。たった100字で余計なことを言いたくなる性分はどうにもならない)。

旧来の指導法がボーイズリーグで、甲子園で、勝てなくなっていかなければ、淘汰されることはなさそう。/その点、長い目で見てルールを変えるのもありか。

 これすなわち、桑田真澄の意見に賛同を表明しているということにほかならない。俺は、今、桑田の意見に賛成する。まず、そこをはっきりさせておく。
 なぜ、ルール変更までも意識するのか。もちろん、桑田の「気が付いて」というメッセージによって、気付く指導者も少なくないかもしれない。しかし、やはり現実としては少数だろう。なぜならば、そのようなスパルタ(←この表現が正しいかどうかわからないが、桑田が問いかけている対象を、ここではそう呼ぶ)鍛錬、超体育会指導によって、結果が出てしまっているのだ。それを潜り抜けてきた一種異様な強化集団が、甲子園などの大舞台で戦えるのだ。そして、指導者たちに栄誉と、おそらくは金銭的な見返りがある。そういうシステムだ。
 その現状を変えるには、桑田のような指導が、甲子園なら甲子園で結果を出さなければならない。「スパルタ式では甲子園で戦えない」ということにならなければ、おそらく勝利を求める者はスパルタ式を採用する。たぶん、甲子園という場かぎりでいえば「勝利至上主義以外、何物でもない」ものが勝利するからだ。
 では、どうすればいいのか。理念ばかり説いても、実利の世界だ。そのために、具体的には「球数制限」のようなルール変更も考慮した方がいいかもしれない。それで、スパルタ起用法とそうでないものが同じ土俵に乗る。あるいは、個々の練習法に踏み込むようなルール導入も必要となるかもしれない。

かつての俺の意見

 さて、上に書いた俺の意見というのは、俺の中で昔からあったものではない。今回、桑田の意見を受けてはっきりさせたものだ。俺はかつてこのような記事を書いた。あの斎藤祐樹が「4日連続完投で、今大会7試合、69イニングをほぼ1人で投げ切る鉄腕ぶりを発揮」したという話題についてだ。

 斎藤投手の力投を、ただ誉め称えるだけでいいのでしょうか。考えてみてもください、炎天下の甲子園で、体も完成していない若者が、プロならとてもじゃないが投げないような試合間隔、そして球数を投げさせられるのです。この斎藤投手が今後どうなるかわかったものではないし、かつて酷使され、潰されてきた多くの逸材のことも思い返してください。まさに死屍累々、夏の甲子園は無惨な投手墓場です。その結果、日本の野球はどうなったと思いますか? ワールドベースボールクラシックで優勝しました。

十八年後の佑樹君たちへ - 関内関外日記(跡地)

 ……というわけで、俺は高校野球の、甲子園のあり方の根本的なところに批判的でない。他の競技がうらやみ、「野球さえなければオリンピックの金メダルがもっと増える」とまで言われる野球人口。それを支える大きなところを担うのは、むしろトッププロでなしに高校野球ではないだろうか。甲子園の狂気、甲子園の魔力。それに魅了され、我が子に大輔と名づける親たち。その過剰さと苛烈さが日本野球を鍛えてきた。WBC=世界一とは言えないにしても、野球の母国アメリカにも、国家規模で野球をやっているキューバにも引けを取らないものであるのは確かだ。それら選手が生まれ育った日本には甲子園があって、その中で野球をしてきた。甲子園への出場経験は問題じゃない。その土台となる文化に甲子園がある。

 したがって、俺は「夏の甲子園」自体は不動でいいと思う。単なる場所の問題、季節の問題ではない。あそこは霊場であり、祭りの場である。霊力が失われれば、日本の野球呪縛はとけてしまう。ただ、このままでいいとも思わない。どう考えても引き分け再試合が即翌日というのはおかしいし、そもそも試合間隔はもうちょっと余裕をもってもいいはずだ。球数制限に関しては微妙だ。アメリカの学生野球などではあたりまの話だとWBCの際に紹介されていたが、理解は得られるだろうか。それに、高校野球の選手たちは、プロへの練習施設として高校の野球部に入るのではなく、高校野球で結果を出すことを求められてスカウトされ、契約するのである。高校野球で結果を出すためのプロフェッショナルである。それが高校野球で出し惜しみしては本道に反する。しかしまあ、これだけの規模の商業イベントなのだ。ガンガン金を投じて、世界最新鋭のケア施設やスタッフを用意してしかるべきである。ただ、いずれの改良も、甲子園の魔力を減ずるものであってはならない。

 ……というわけで、俺の高校野球、あるいは名門校に対する意識はたいへんゆがんでいる。しかしながら、今さら大会の健全な建前と実状の差を非難したところで、何の意味があろう。みんなわかりきった話だ。わかりきった上で、野球をやるやつが高校球児になって、燃え尽きるやつは燃え尽きて、それでいいんじゃないのか。

 このような具合だ。思わず全文ひいてしまった。俺は、けっして高校球児のケアを考えていないわけではないが、日本プロ野球を支えているものが甲子園の狂気であるならば、その狂気のままにしておけ、というわけである。しかし、今回考えをあらためようと思ったのはその部分ではない。むしろ、「俺の高校野球、あるいは名門校に対する意識はたいへんゆがんでいる」という部分。これをもっと有り体に言ってしまえば、背が高く、力があり、運動神経に優れた人間への嫉妬であり、同時に体育会系というものへの反感、忌避、そして矛盾するような羨望である。ちょっと前、はてな匿名ダイアリーに次のような記事が投稿されていた。
http://anond.hatelabo.jp/20090203200017
 苛烈な部活の思い出話である。これに対して、俺は次のようなメモをした。

そこで得られるものの百分の一でも自分にあれば、と思わないこともない。でも、たぶん二秒で逃げる。

 この何やら矛盾したような心持ちがある。これが働いて、俺は野球少年やその他スポーツをする子供たちについて、どこかゆがんだ心情を抱いている。そして、愛すべきスポーツ観戦、尊敬するアスリートたちに向ける視線も、どこかゆがんでいることを認めざるをえない。それゆえに、「燃え尽きるやつは燃え尽きて、それでいいんじゃないのか」などと突き放したようなことを言った。そこだ、その点について、俺は反省したんだ。桑田の言葉に気づかされたんだ。

野球その他の愛について

少年時代、練習に行って殴られなかった日は無いくらい、怒られ殴られた。
朝から晩まで練習するのが当たり前の時代、
真夏でも水を飲めなかった時代だ。
耐え切れず、トイレの水や雨上がりにできた水溜りの水を飲んだ経験もある。
甲子園でプレーさせて頂き、ジャイアンツで、そしてメジャーでも投げさせて頂き、
野球というものを、ある程度は、熟知していると思う。
そんな経験をしてきた僕が、今の日本の野球指導者にお願いしたいことです。
厳しい言い方かもしれないけど、
「気が付いてください」「気付いてください」よ。

 桑田は、どこか自由な気風のスポーツ世界からやってきて、日本野球を批判しているわけじゃあない。自ら述べるように、日本野球のど真ん中を、甲子園のど真ん中をくぐり抜けてきた人間だ。桑田を前にして、自分の方が努力したと言える人間がどれだけいるだろうか? そこに重みがある。俺のような非体育会系の人間をして「連中の好きにさせておけばいいさ」と言わせない説得力がある。
 そして……、桑田は「気が付いてください」「気付いてください」と言う。そこが深い。決して「知って下さい」と言っているわけではないのだ。舶来のスポーツ心理学やトレーニング・テクニックを伝えてきたわけではないのだ。
 では、何に気づく? それは、スパルタ指導者たち自身の中にあるものだ。スパルタ指導者たちが、かつてスポーツ少年少女だったころの、彼ら自身だ。俺はそう思う。勝手にそう思う。指導者たちも、やはりその指導者たちから殴られ、蹴られ、縛られ、吊され、罵詈雑言を浴びせられたというケースが多いはずだ。今からふり返ってみたら、ではない、そのときの彼ら自身の中に芽生えた、恐怖、絶望、憎悪、そういった魂の傷だ。それに気づいてください、と言っている。

昔を思い出してください。
投げ込みして、何が溜まりましたか?
走り込みして、何が溜まりましたか?

 ここに、桑田という人間の懐の深さがある。今はスパルタとして、子供を引きずり回し、晒し者にし、完全にでくのぼうにしてしまうことすらありかねない指導者たちだって、かつては傷つく魂の持ち主であった。いや、今だって、魂はあるんだ。響くハートはあるはずだ。そういう信念がある。俺はそこに打たれる。だから、元より体育会と縁無く「マゾはマゾ同士ずっとやってれば」などと嘯くようなことはもうするまいと、俺はそう思った。これからは、少年野球の練習のかたわらを通り過ぎるとき、たまたま耳にしてすくみ上がるようなあの罵声、あれを浴びせかけられる子供もまたすくみ上がってると、そう思おう。
 そうだ、わざわざ誰かがいやな思いをして、スポイルされて、それでいいということなんてないんだ。子供たちだって、そのスポーツがやりたくてはじめるんだ。決して壊れるまでやるためにやるわけではないし、ましてや大人から打擲されたり、罵り倒されたりするためにやるわけじゃないんだ。そんな犠牲の元に成り立つ野球よりも、そうでない野球の方がもっとすばらしいものになるだろう。野球はただでさえすばらしいのだから、もっとすばらしいものに対して、野球はもっとすばらしく応えるだろう。俺はそう信じる。そう信じて野球を観る、スポーツを観る。将来の名選手、そして名指導者たちに幸あれ!

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