魂の落としどころがどっかにあるはずなんだ、たぶん

 エホバの証人ものみの塔)の輸血拒否をめぐる問題について、いろいろな意見などを読んでいろいろとつらつらと考えてみましたので、なんか脳から垂れ流してみたいと思います。

まず、俺はどう思ってるの?

 新聞で親権停止で子供の命救ったって記事読んだときの感想は、「やればできるじゃん」だった。それは今もかわらん。ただ、拍手喝采で終わらんぜって、そういう感じもした。今後の彼らのこともあるだろうしさ、あるいは日本社会と、エホバの証人との間のことは、これでまあいいかってことにはならねえって。
 まあ、もちろん、「間のこと」を完全にどうにかする、片づける必要はねえかもしれん。片づけるってのは、もう完全にエホバの証人エホバの証人としての、なんつーの、存在感、アイデンティティを失って、完璧に社会に同化するっつーか、まあ無くなる、みてえなことかな。
 だから、現実的な法の運用だとか、そういうので対処して、落としどころを見つけていくことになんら異論はねえし、俺もそもそもブクマに書いたとおり、「やればできるじゃん」だから、やってくべきだぜって思うんだ。
 だけど、片づけようとしなくても、片づけられないとしても、まあどっかしら、ときに俺が「われわれ」と思ってしまう、こっち側があるとして、そのこっち側と、エホバの証人エホバの証人的ものとの間に、何かロスト・イン・トランスレーションがあるとすれば、なんかそこんところを見ておいて、意識しといて、悪くはないはずだぜって思う。

論内論外

 それでまあ、「たとえどんなにエホバが間違っていようとも……」っていうと、まあ、まずこないだの村上春樹の説法を思い出すわけじゃん。なるほど、そういう考え方はあるかも知らん、と思う。さっき書いた"俺が「われわれ」と思ってしまう"って書いた、我々が壁になってるってことだ。それは大いにある。大いにあるし、われわれが「言うまでもない」っていう前提、たとえば「子供の命は救われるべきだ」みてえな、それを疑わなくていいのか? っていう、そこんところはある。
 俺は、そこんところについて、「そりゃあ言うまでもないぜ」っていう、そういうのはあんまり好きじゃない。疑ってみて、考えてみて、感じてみて、「お前さんはそう言うが、それでもやっぱりその子供は救われるべきなんだ」って、そうじゃなきゃ嘘だぜって気がする。この世を論じようとするならば、論外なんてねえんだって。そうでなくては、むしろ壁になっている教団に、「われわれ」の壁でぶつかるだけのような気がする。お互い卵は壊れる。
 そうだ、その「われわれ」の前提だって、大いにあやしい。だいたいこの日本社会ならば、まあすんなり通って、受け入れられるけど、たとえばもう、世界に目を転じて見りゃちょっと違うような気がする。たとえば、ある種の思想や宗教の下では、「(現世の)いのちだいじに」ってのがスタンダードではないかもしれない。そのへんで、決して小さくない争いが起こり、血が流れたりしているかもしらん。「われわれ」がよいととりあえず認めている自由主義や民主主義が、決して人類普遍の真理なんかじゃねえだろって。
 あと、自由主義や民主主義を守るために、そのためにいったん自由や民主を置いといて、気が進まないこともしなきゃならねえってなるときもあって、そんときに真理はどこに行っちゃったの? みてえなこともある。だから、「論外」はねえんじゃねえだろうかって。関内と関外はあるが、中区全体で考えよう、中区だけじゃだめだ、横浜市で、いや、神奈川県でって、まあ銀河系の向こうから、遠くから考えたっていいだろうよ。

信仰の側に立つってのはどういうことか

 で、視野を広げて考えて行った末に、どこで落とそうかって。そこんところは、俺、アホだし、「これこれこういう場合はこう。その権利はここまで」って、明文化できたるするようなもんじゃねえよって、それをすっぱりうまいぐあい断ち切るハサミなんてねえよって、少なくとも俺はそれを考えることはできねえなって。エホバの証人の輸血問題と、どっかの国のカトリックの少女妊娠中絶問題と、ひとつのハサミで切れないって。切ろうとすると、たとえば、もう、宗教全部否定みてえな、あるいはその逆の、終末戦争の対立まで肯定するような、すごい乱暴さしかないと思う。そういう乱暴なのは、やっぱりあかんと思う。
 だから、一つ一つ考えていく、ケース・バイ・ケースで愚直にやってくしかねえと思う。もちろん、積みかさねや蓄積から、「これこれここまではだいたいオーケー」的な、「いくら信仰の自由だからって、満員電車でサリンの入った袋を傘でつっつくのは無し」みてえな、いや、それはたぶん法の下では明白なんだけれども、もっとなんかまあ、微妙なケースについても、だいたい枠組みができていって、だいたいなんかなっていくのはいいんだけれども、って。
 そこんところで、法律は法律としてまあなんかとりあえずアリとしても、まあまず、あんまりいきなり前提からして、「お前らカルトだろ」、「異常だろ」、「こっちが当たり前だろ」って、常識を常識として出すのはあんまり面白くない。それが正直なところだ。どんな常識でも、「やっぱり常識じゃねえの?」くらいだ。言い方のニュアンスじゃん、って言われたら、そうかもしれねえけど。
 で、たとえば、こないだのカーネル・サンダース人形騒動なんかもそうだったけれど、なんかともかく、人間そこまで合理的じゃねえし、曰く言い難いものを完全に排除して、明文化しうるものばかりの中に生きてるわけじゃねえし、誰もが「ある宗教・宗派」の信の中に入ることはできなくても、どっかしら、そういうところから人間なりたってるし、それじゃ「われわれ」が子供の命を救いたいとか、そのあたりの出所だって、人類文化が長く築いてきた、そういうところに成り立ってるとして、その根っことか土台の方に、ある種の宗教的なものが、それぞれの文化において存在してるんじゃねえかとか、そういう風に見たっていいと思うんだ。その上であぐらをかいて、宗教の二文字をいたずらにバカにすることについては、あーんまり面白くねえって思う。
 でね、その上で、その上で俺は、まだ分別や選択権のない子供に、命の選択をさせねえようなことには反対だ。サリンで人間ぶっ殺すことも反対だ。それははっきりと述べる。それで、じゃあ、やっぱり分断と対立しかねえのか、そこんところには悩む。結局のところ、そういうもんなのかって。軽薄に「ユマニテ」をふりまわすことの、愚かしさしか残っていねえのか、おめでたさしか残っていねえのか、って。

魂の落としどころ

 でもさ、人類の人種も文化もなしにさ、どっかしら人間同士の落としどころみてえなもんはあると思うよ、俺はそう思う。そう妄想する、そう希望する。
 で、それはなにかっていうと、愛、だとか、正義、だとか、思想、だとか、あるいは科学、とかでもなしに、もっとろくでもないもの、人間の弱さ、卑怯さ、怠惰、汚さ、ずるがしこさ、いい加減さ、そんなもんじゃねえのかって。強さより弱さ、正しさより間違い、美しさより醜さ、そっちで手を繋げるんじゃねえかって妄想だ。そこが落としどころじゃねえのって。俺はそんな夢を見る、2009-02-23 - 関内関外日記(跡地)「おたがいに、おたがいが寒いから犯した過ち、暑いから犯した過ちの共犯者になって、にやりと笑って、シリアスな殺し合いなんかしなくなる」、そんな感じだ。
 たとえば、こんな記述。

そこで新しい光ですよ!! いやもうまじ。とほほですよね。でも、よい信者はそれで思考停止して新しい教理を信じます。エホバの証人というのはそういうものなんです。これがカルトでなくてなんだろうか。理性の完全な惰眠をわたしはそこに見出します。

http://d.hatena.ne.jp/Britty/20090317/p1

 ちょっと、この著者の述べる文脈とはずれることを承知だけど、「新しい光!」、マジ、とほほってあたりに、俺はなんか光明を見出したい。失礼を承知で言うけれど、「新しい光!」って、ちょっと笑いどころじゃねえかって。現役信仰者の中にも、どっかしら、「とほほ」って思ってるところがあるんじゃねえのって。俺はむしろ、命の尊さや基本的人権を説くよりも、そこんところに、ちょっと笑えちゃうようなところに、なーんか、橋があるんじゃねえのかってさ。「案外とほほって思ってるんじゃねえの?」、「いや、実は(笑)」って。
 うーん、無理かなぁ。もう、本当に真面目な人ってのはいる。すごいストイック。一本道、思考停止。でも、人間、どっかしら隙があるんじゃねえのか。弱みはないのか、悪さはないのかって。で、その弱みや悪さにつけこんで、そいつを痛めつけたり、洗脳から解くなんて話じゃないんだ。ただ、そっからなんか愚か者同士話しあえる、糸口にならねえのって。それで、あんまり笑って話すところに、殺し合いみてえなことはなんねえって、俺はその程度には、人類について楽観してるし、あるいは信じている、といえるかもしれない。もちろん、間違いの総量もバカになんないし、そっちが多いかもしれねえけど、まあ今のところ、まだ滅んでねえじゃんって。
 けどやっぱり、そうやって弱みにつけこむのは、ある意味「悪魔」だよな。それは認めなきゃいかん。「人類みんなバカだ、みんな罪人だ。でも、それでいいじゃん」って、それを人に言うとき、人をバカで罪人だって言うとき、そいつはかなりの壁圧力じゃねえのかと。俺のようなバカでスケベなのは(スケベ関係ねえじゃん)、「悪人正機」とか言われると、ちょっとありがてえって思うわけじゃん。

親鸞は弟子に「お前、今から千人殺してこい」って言って、弟子が「私の器量では一人も殺せません」といったら、「やっぱりほら、それが宿業じゃないから殺せないわけだ。人間の為しうる善悪なんてこれっぽっちもないんだ。羊の毛の先の埃みてえな罪の一つ一つもぜんぶ宿業だ。だから、逆に百人千人殺しちゃうこともあるわけ」って言ったとか。

ぼんやりのたれながし - 関内関外日記(跡地)

 なんて見ると、もう、それでいいじゃん、やったー! って思うわけ。でも、人間、俺のような魂の形質ばかりじゃねえし、それは認めなきゃいかんと思う。でも、でもさ、その上で、俺は、やっぱり人間、そんなにすげえもんじゃねえよ、神さまじゃねえよって。ブルーハーツが唄うように、「過去・現在・未来、バカ」だろって。なんかおかしけりゃ笑うだろって。
 そういうわけで、。小林秀雄の風刺漫画の話もそうだけれども、ユーモアんところに、ヒューマニズムみてえのがあって、そんでヒューリスティクスに(?)ぼちぼちやってくんじゃねえの、人類、みてえな。
 ……まあすごい楽観、気楽、脳天気。でも俺は、苦しいのも悲しいのも痛いのも嫌だし、できるかぎり楽な方にボケーッと、公園で海見てるみてえな、そういう方向へ、方向へ、勝手にむかっていくし、「あらびき団」とか見て笑ってたいし、そのていどの人間一匹まあ、ぼちぼちやっていくしかねえんだよって、この有様なのでありますよっと。おしまい。
 ああ、でも、なんだ、なんかまあ、ちょっとまともな文でしめておこう。鈴木大拙の「現代世界と禅の精神」(『東洋的見方』収録)から。

 人間生活の終末は、すべての人工組織から開放せられて、自らの組織の中に起居する時節でなくてはならぬ。つまりは、客観的制約からぬけ出て、主観的自然法爾の世界に入るときが、人間存在の終末である。それはいつ来るかわからぬ。来ても来なくてもよい。ひたすらその方面へ進むだけでたくさんだ。それまでは人為的組織は、それを作り上げるまでのさまざまの条件の転化するにつれて、転化するにまかせておく。さまざまの条件とは、自然界環境と、組織構成員の知的・情的・意的進転である。(この内外の条件は最も広い意義においていうのである。)これらの条件はいつも移り変わりつつあるので、それを大にして、人間が考え出し作り始めた社会組織なるものは、けっして永続性を持たぬ。また一場所・一時代における構成が、そのまま、いつまでも、どこへ行っても、完全であるとは、夢にも想像できぬ。それゆえ、いつも不定性・移動性・局部性を持ったものと、考えておかなくてはならぬ。
 自然の環境の人工によって変更を加うべき範囲は、知れたものである。ただ、いつも変わらぬと見るべきもの、否、しかと見定めなくてはならぬものは、われら内面の自由な創造力である。これを内面というのは、前にもいったごとく、すこぶる物足らぬいい現しではある。が、今はこれを詳しく論ずるひまがない。いずれにしても、われら人間の内面性の極限にあるものは、万古不変だ。これは、人間社会組織のほんとうの根源だから、何をやるにしても、考えるにしても、われらはここに最後の考慮を据えつけておかなくてはならぬ。