バスカッシュ!がいいこといってた

 アニメ『バスカッシュ!』。メカニックのじいさん。なんかすごい技術があるようだ。ほかの企業がスパイに来た。それを見つける。見つけて、堂々と写真撮っていけと言う。なぜか。「テクノロジーはみなに共有されてこそ。ただ、テクニックは個人のものだ」、と(大意)。
 で、俺は誰かのつくり出したテクノロジーの恩恵を受けて生きているだけで、自らがテクノロジーそのものを対象として何かをしているわけじゃあないんだけれども、これはいいな、これはいい言葉だと思った。
 たとえば、テクニックといっても、決して科学技術だけのことじゃなくて、そう、たとえばアートの世界であるとか、そういう面での技法とか、そういうの。ある技法が広まって、模倣されて、マニュアル化していく(テクノロジー、と呼んでいいのかどうか)。でも、テクニックは、たとえ誰かがスーラみたいに点を打っても、スーラはスーラだし、スーラの作品はテクノロジーとテクニックと、あとなんと名づけていいか芸術の核となる何かで成り立っていて、そうじゃなきゃスーラは残らねえし、と(でも、スーラが具体的にどう点打ってたか、わかってないんだっけ?)。
 いや、だからなんだというか、ようわからんが、たとえば、科学技術以外にも、芸術、絵だって音楽だって、文学だって、テクニックとテクノロジーがあって、決してテクノロジーとして共有されえぬものが、なんというか、その。あるいは、信仰心のようなものだって、あくまで個人個人による(依る、寄る、因る)ものと、あるいはテクノロジー的に平準化というか、そうできるところがあって、どっちがどっちというのではなしに、そこんところせめぎ合いのような何かがあって、なんというのだろう、俺は美学も何も学がないからわからんが、そこのところの際のところが、なんかおもしろいんじゃねえかと思ったのでした。おしまい。