ほめられようとも、このいきぐるしさ

 たいしたことないだろうと思った。他愛ないあそびなのだ。ジョークだ。でも、ひょっとしたら、なんかにやにやしてしまうかもな。そんな風におもって、ちょっと期待して、クリックして、はじまった、絶賛のあらし。
 俺は、ほとんどもう、絶望的に、耐えられなかった。これはなんなのだ。とても気持ちわるい。拷問だ、よくできた拷問だ。そんな俺をくるしめるな、この、このジョークめ、いや、ジョークなんかじゃないぞ。ああ、これはひどい、おそろしい。

 ブックマークを見ると、反応が二分しているようだ。まあ、二分といっても、「なんにもしていないのに、ほめられたっておもしろくないさ」という人もいるだろう。肯定的におもっているひともさまざまだろう。でも、ともかく、俺は、なんというか、これに耐えられない。

 そういえば、ちょっと前に、こんな記事を読んだ。読んで、俺はブックマークに、こう書いた。

家族親類がそれなりにできる人らだったので、ナチュラルなハードルが高く、とくに苦労も失望もせず、結局(2)-2に落ちついた俺。評価されたい、誉められたいとは思うが、そのためのレセプターが存在していない感じ。

 まあ、俺は、俺の脳味噌の、中のことや、まあ、俺のというか、人類の、脳のはたらきや、心の機能を知らないわけだけれども、もやもやと、想像するイメージとしては、こんなところであって、「ほめ」成分がふわふわと入ってきても、それを受け止める受容器がないような、そんなふうな気がしている。
 たぶん、ほめられていることは、あると思う。ほめられていないわけではないかもしれない。でも、それを、素直にうけとめて、くさい言い方をすれば、心の栄養、みたいな、そんなふうに消化する器官というか機能というか、そこのところのはたらきが、すごく弱い。動いていない。そこんところが、どうも、たぶん、あまり健康的ではないのではないかと、まあ、俺は、人間の脳の科学や、きちんとした心理学、いい加減な心理学も知らないのだけれども、そういうような感じで、自分の体が感じていると、感じている。

 まあ、俺は、ずっとそんなこと、知っていたかもしれない。到達していない感じがする。ほめられても、うそだと思う。うそじゃなくても、本当は、もっとできたのにって思う。もっとできたことに対して、それに目をつむる、おためごかしに聞こえる。及第点じゃだめなんだ。ほめるっていうのは、完璧なものに対して、呈されるものなんだ。
 だから、俺は、上のリンク先にあるように、たとえば、万馬券をとっても、「もっとたくさん買っておけばよかった」、「もっと買い目はしぼれた」、「三連単で買っておけばよかった」とか、そんなふうに、考えてしまうところ。端的には。競馬はよい。ほめられサロンや、フォークト・カンプフテスト以上に、俺を映し出す。
 完璧主義者。完成させる前にこわしたくてしょうがないやつ。なにか、とても自分には為しえないような完璧なもの、理想型、究極の完成が、頭のどこか、いや、頭の斜め上の方にぼんやり光っていて、それと比べて、ああ、俺は、どうしようもないと、思い続けて、こんなゴミの、できそこないの、未完成品を、ほめたって、それはもう、俺には、下手すれば皮肉、ほめ殺し
 幼稚園のころだった。クリスマスのころだったろうか。みんなで、頭にかぶる三角形の帽子をつくる。たんに、絵を描いて、きらきらの星を貼って、模造紙をまるめて、とめて、帽子にするだけの、工作。俺は、いの一番に絵を描いて、星を貼って、まるめはじめた。が、どうしても、円すいの角度が気に入らなかった。理由はわからないが、こんな角度ではいけない、そんなふうに思って、うまく仮留めもできず、気づいてみたら、俺以外のすべての園児は、あたまに帽子をかぶって、教室の外に出ていて、俺一人残されていて、俺は泣き出してしまった。ああ、俺の、理想の、円すい。
 あの円すいを、完成させていたら、俺は、俺の脳は、なにか違うことがあったんだろうか。
 俺はときどき、あの円すいのことを思いだす。
 この世の、美しい、完璧な、理想の、円すい。頭のちょっと上に輝いているひかり。手を伸ばしても、とどかない。
 とどかない。
 とどかない。