『天体による永遠』ルイ・オーギュスト・ブランキ

天体による永遠 (1985年) M.アバンスール/V.プロス編 浜本正文

(裏表紙より)
夢と動乱の19世紀、いくたびか閃光を放ち、ついに歴史の暗流に呑まれたかに見える革命家ブランキ。一八七一年パリ・コミューンの激動のさなか、トーロー要塞の土牢に幽閉された孤独な老囚は、ただ一つの自由=想像力をふりしぼり、狂気の壁を突破して宇宙へ旅立った。光と闇の無限世界―ブランキがそこに見たものは何か? ペシミズムを内に湛え、巨大な重力の底から深々と跳躍した男の「誇り高き遺書」は、いま、我々の心をうつ。

wikipedia:ルイ・オーギュスト・ブランキ

ルイ・オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805年2月1日 - 1881年1月1日)は、フランスの社会主義者、革命家。19世紀フランスにおけるほとんどの革命に参加し、のべ33年余りにわたって収監された。

 76年の人生のうち33年間を牢獄ですごした革命家。その革命家が晩年近くなって、やはり牢獄の中で記した『天体による永遠』。革命や政治の本? 根底の、魂のところ、ブランキの内なる世界観、宇宙観と通じているに違いない。でも、『天体による永遠』は、けっして革命や政治の本ではないんだ。俺は、そう思った。どこにも、そんな話は書いてない。
 じゃあ、牢獄の中の狂気、狂気精神世界を、狂気精神世界で、あらわしたもの? そうも、おもえなかった。
 では、『天体による永遠』とはなにか。俺には、天体と宇宙に考えをめぐらせる、科学的な本に思えた。とてもリリカルで自由な、宇宙のものがたりに思えた。俺には、これが、とてもすばらしいSFにおもえてしかたなかった。とても、透きとおっていて、凄烈な本だった。とても悲しく、美しい本なんだ。俺は、ブランキがどんなことを考えて、どんな革命をやったか知らないけど、俺は、そう思ったんだ。

 今日では誰もが彗星をひどくばかにしている。彗星は優越的な惑星たちの玩具なのだ。惑星たちは彗星を突き飛ばし、勝手気ままに引きずりまわし、太陽熱で膨脹させ、あげくの果てはズタズタにして外に放り出す。完膚なきまでの権威の失墜! かつて彗星を死の使者としてあがめていた頃の、何といううやうやしい敬意! それが無害と分かってからの、何という嘲りの口笛! それが人間というものなのだ。

 それにしても、だ。俺は、小学生あいての全国一斉学力テストで何点をとれるかわからないが、ほんとうに理科をしらない。人並みか、それよりちょっとたくさんSFを読んでいても、まったく理科をしらない。それを痛感した。1805年生まれのブランキより、ただしく星々のことも、重力のことも、引力のことも、しらないだろう。俺は、彗星がいったいなんなのか、ブランキの時代なみに知らなかったし(「汚れた雪玉」ということばを見たら、まあ見た覚えはあったが)、稲垣足穂がおもいうかぶくらいだし(それも、『一千一秒物語』のショートだよ)、星雲といわれても、青雲、それは〜と、なにか音楽がながれてくるし、なるほど銀河とはべつものなのだ、とか。あるいは、黄道帯なんていうことばは、これはもう、ぜんぜん知らなかった。ケータイで、ウィキペディア参考にしながら、読んだ。俺は、理科にすこしかしこくなれたみたい。

 結局、自然は、その全作品をつくって、それを≪惑星=恒星系≫という単一の鋳型に流し込むのに、一〇〇元素しか持ち合わせていない。恒星系のような大きなものをつくるのに、全材料といえば一〇〇元素だけなのだ。仕事は大変な仕事だが、道具はない。たしかに、こんなにも単純なプランとこんなにも乏しい元素数では、無限を満たすに足るさまざまの化合物(=組み合わせ)を生み出すのは、容易なことではない。反復の力を借りるのは、避けがたいことである。
 自然は決して繰り返さない。二人の同じ人間、二枚の同じ葉は存在しない、と人々は断言する。だが厳密に言えば、それは、我らが地球上に生息する人間についてだけ言えることであろう。そこでは、全人口は、それ自身非常に僅少であるのに、さらに幾つかの人種に分かれているのだから。だが、よく似た柏の葉なら何千枚となくあるし、砂粒だったら数十億個も存在する。
 疑いもなく、一〇〇元素は、恐るべき数の、異なる惑星=恒星化合物を供給することができる。

 「如何なるか是れ祖師西来の意」って聞いてみたら、「庭前の柏樹子」って。まあ、たぶん、中国と日本とフランスで、どの柏なのかわかんないけれども。で、おれは、元素の数もよく知らない。東海の真砂の数も数え切れない(どこの公案?)。水兵リーベ、マイネリーベ
 で、ブランキのころ、64、見つかっていて。この本が出版されたときに109、いま、ウィキペディアによれば約118(‘約’ってなんで?)。ブランキは、まあ約100くらいあるだろう、とした。100ってたいした数じゃない。いや、たとえ1000あったとしても、そんなに多くはない。結局、材料はその程度なのだ。

 元素だけで全物質を構成しなければいけない以上、元素の一つ一つは、おそらくは無限の量にのぼるはずである。だが、一〇〇を超えない元素の組み合わせは、無限ではない。たとえ一〇〇〇元素だとしても―それはありえないことだが―原型=化合物の数は、空想的な数にまで増大するけれども、無限には到達できず、無限を前にしては無意味なままであるだろう。したがって、宇宙の広がりをオリジナルな原型だけで埋め尽くすことの不可能性は、証明済みと考えてよい。

 だから、元素が、なんか宇宙の、物理の法則で、ばんばん天体をつくっていけば、そんなに、まったく違った、オリジナルなものなんて、出てこないんだ。その開始と終わりは別でも、まったく、おなじことが、繰り返されていく。

 一つの地球があって、そこでは一人の人間が、他の地球で他のそっくり人間によって見捨てられた道を歩いている。彼の人生は天体ごと二分される。そして、二度目、三度目の分岐を行い、何千回も分岐する。彼はそのようにして、完全に瓜二つの自分と無数の瓜二つの変種(ヴァリアント)を手に入れる。この変種の方は、彼の人格を絶えず増殖させ、再現するけれども、彼の運命の切れっ端しか獲得できない。この地上で我々がなりえたであろうすべてのことは、どこか他の場所で我々がそうなっていることである。無数の地球上に存在する、誕生から死までの我々の一生のほかにも、他の何万という異なる版の我々の一生があるのである。

 選択をするごとに、世界が生まれている、というと、グレッグ・イーガンの『宇宙消失』のようだけれども、まあ、開始と終わりのタイミングは異なれど、俺は、もういつかの宇宙のおれで、またいつかの宇宙のおれなんだ。宇宙は繰り返されるんだ、タウ・ゼロ。

 我々の地球も他の天体同様、絶えず同じ自己を生み出し、何十億という自己の写し星と共に存在する、原初の化合物の反復体なのだ。それぞれの写しは、それぞれに生まれ、生き、そして死ぬ。過ぎ去っていく一瞬ごとに、何十億という写しが生まれ、そして死ぬ。一つ一つの写しには、すべての事物、すべての生物が、同じ順序で、同じ場所、同じ時間に次々と登場する。それらは、瓜二つの別の地球上でも継起する。その結果、我々の星がこれまでになしとげ、また死滅するまでになしとげるであろうすべての出来事は、そっくりそのまま、何十億というその同類の天体上でも遂行されるわけである。そして、これはすべての恒星系においても同じ事情であるから、宇宙全体が、常時更新され常時同一性を保つ物質や人間の、終りのない、永遠の再生産の場となる。

 永劫回帰、とか、よくわかんないけど。ともかく、そうなんだ。もう、繰り返し、終わりなく、繰り返される舞台。ああ、この悲しみ、カート・ヴォネガットの悲しみ。

 このようにして、それぞれの惑星のお蔭で、すべての人間は、自分の人生と全く同じ人生を送っている数限りない自己の分身を、この宇宙の広がりの中に持つことになる。彼は現在の年齢の自己だけでなく、彼のすべての年齢時における別の自己という形でも、無限かつ永遠なのである。彼は現在の一瞬ごとに、何十億という誕生しつつある瓜二つの自分、死んでゆく自分、また誕生から死までの生涯の一瞬ごとに並んでいるすべての年齢の自分を、同時に持つのである。

 刹那即永遠なんだって。鈴木大拙は、よく、一、二、三の有限があるから、無限に超横できるとか、ちがったかな。有限があるから無限があって、無限からまた、有限に戻らねばならないとか、そんなことを、いっていた、ような気がする。ああ、同時の俺。いま、いきなり服を脱いで、外に飛び出した、どこかの地球のどこかの俺がいる。いるんだよ、きっと。

 トーロー要塞の土牢の中で今私が書いていることを、同じテーブルに向かい、同じペンを持ち、同じ服を着て、今と全く同じ状況の中で、かつて私は書いたのであり、未来永劫に書くであろう。私以外の人間についても同様である。

 一九世紀の人間である我々の出現の時は永遠に固定されて、我々はいつも、同じ経験を繰り返させられる。せいぜい幸福な変種の見込みがあるくらいのものである。最良のものに対する飢えを大いに満たしてくれそうなものは、何もない。しかしどうすればよいのか? 私は決して自分自身の楽しみを求めたのではなかった。私は真理を求めたのだ。ここにあるのは啓示でも予言でもない。単にスペクトル分析とラプラスの宇宙生成論から演繹された結論にすぎない。上記二つの意見が我々を永遠にしたのである。それは思わぬ授かり物だろうか? それなら、それを利用しようではないか。それはまやかしだろうか? それならあきらめるほかはない。

 だが、何十億という地球の上で我々が、今はもう思い出にすぎない我々の愛する人々といつも一緒にいるのだということを知るのは、一つの慰めではないだろうか? 瓜二つの人間、何十億という瓜二つの人間の姿を借りて、我々がその幸福を永遠に味わってきたし、味わい続けるだろうと想像することもまた、別の楽しみではないだろうか? 彼らもまた明らかに我々自身なのだから。

 ああ、この最後に引用した一節はすばらしい。俺は、その慰みを、幸福を、肯定する。どこまでも、俺は、肯定する。俺は、去年の十月の終わりに、こんな夢を見た。夢を見て、そのままに、ケータイに打ち込んだ。

三度生きて三度目には失敗しなかった。同じだがわずかに違う。登り電車は下り下り電車は登る。三度目の世界を壊さないように努めた。この世界はこのように私によってありうるのだと。最初あるいは最後の塵芥、一粒、一点の作り出す、何通りもの、ありとあらゆる可能性、繰り返され、同時にある。私はそのことを、愛するあなた、あなたの悲しみにどうしても伝えなくてはいけないと、強く思い、強く思い、強く思って、目をさましてしまって、今こうしてその世界の外のことを書き留めている。啓示する夢、三度目には失敗せず、ありきたりの幸福を得られる。電車はあべこべのホームに入り、またその場合の世界は根本からそうだった。しかしそれは塵一つの映し出す一つの仮の像でしかないのだ。世界の数だけ繰り返し述べも尽きることのない言葉。あらゆる悲しみ、しかし三度目には失敗しなかった。幸不幸の現れ方はゆらぐ波の山と谷のある仮の時点の仮の見え方に過ぎず、本来は一本の直線に過ぎず、その線も本来は一つの点の見る夢に過ぎないのだ。愛しいあなたの悲しみは同時に三度目の世界の幸福である。そのことを私はどうしても伝えなくてはならず、目覚めて

なおうち震え、こうして書き留めているのだ。

2008-10-31 - 関内関外日記(跡地)

 ありきたりの、老ブランキも見た夢かもしれない。俺は、仏教本や、大好きなフィリップ・K・ディックの影響を受けて、でも、ともかく、この夢はすごかったんだ。こんな夢は、もう見ないだろう。俺を統治する、俺のための、俺による、秘密教典。ああ、これは、俺だけの秘密。誰にも知られてはいけない。だけれども、ブランキは、スペクトルと、ラプラスから、演繹して、夢見てしまった(不確定性なんとかとか知らねえよ、ブランキも俺も)。ブランキのそれは、この宇宙、別の天体に、ああ、そうなのか、俺は、それがどこにあるか知らなかった。そうだったんだ、宇宙に、あるんだ。同じ地球があって、同時に、それはこの、たとえば、俺の脳味噌だとか、精神だとか、そんなものの中にあるんじゃないんだ。あるんだ、それは。俺は、この瞬間、刻刻と永遠であって、永遠が、この刻刻と、この一瞬であって、ああ、すばらしい。すべてはもう終わった過去の記憶だし、俺がどう間違うことがあろうと、それはもう、羊の毛の先ほどの罪もないし、あるいは、幸福な俺のヴァリアントが、宇宙にいると思えば、いいなあ。俺の好きだった人と、結ばれていて、俺は俺で、まあよろしくやっているし、すばらしい、ああ、俺たち、宇宙、永遠。すごい、自由だ、俺は俺は俺は俺は俺は俺は……。
(今朝、山下公園で読んだ。本編だけ。解説とかは、またいずれ。実は、朝早く出たから、草なぎ君のニュース、会社で知ったんだよね)

追記______________________

グリーゼ581eの発見を受けて新たに計算したところ、グリーゼ581dは、生命を育む上で太陽系の中心星からの距離がちょうどよいとされる、いわゆる「ハビタブルゾーン(生命居住可能領域)」にあることがわかった。

「最も地球に似た」太陽系外惑星を発見 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

 そんなの見つかって当たり前だ! もっと同じのがあるんだよ、同じのが……。

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