『幻の湖』は永遠の映画だ。すべての映画は永遠だ。俺たちも永遠だ。


 『幻の湖』を観た。もはや多言を要すべき作品であるとは思えない。それ以前に、俺にはこの映画をおもしろおかしく紹介する術がない。俺は、ただ、虚心坦懐に、こころを空っぽにして、この映画に向き合って、観て、観てきたことを、観てきて感じたことを書くしかないんだ。

本作品中、どんなに忙しくても、どんな荒天も、本作品の「コンセプト」であるジョギングを毎日1時間、かかさず行い、4500キロを走破したとの事。

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 この映画で気になる点はいくつもあるが、ひとつしかない。なぜ、南條玲子は走らねばならなかったのか。あんなに、過剰に、いつまでも。何を追っていたのか、俺には、想像もできない。決して、白い犬を追っていたのでもない、ましてや仇を追っていたわけでもない。あるいは、何かに追われていたのか。俺には、想像もできない闇が、そこにはある。南條玲子は走らされねばならなかった。琵琶湖のほとりを、駒沢公園を。

 デビ・カムダ。デビ・カムダって誰だ。デビ・カムダってなぜ急に、ファントムあるいはイーグルなどと口にするのか。なぜ、俺は、デビ・カムダのつたない日本語にえんえんとつきあわなければならなかったのか。

 俺が、この映画で一番好きなシーン。おそらく、本当に地元のエキストラのひとびと。彼らは集められ、立たされ、口々に、でくのぼうみたいな相づちを打つ。打たねばならぬ。彼らがさらされているのか。南條玲子が、それとも警察官がさらされているのか。

 いったい、我々が映画を観るとき、いったい何にさらされているんだ? 
 俺は、そんなこと、想像したこともなかった。

 そうだ、俺は気づいたんだ。映画を観ている俺たちが、さらされているんだ。みずからの人生が、ある種の極限にさらされているんだ。

 映画とはなにか。永劫回帰だ。永劫回帰そのものだ。映画の中のひとびとは、永遠に同じことを繰り返す。繰り返さざるをえない。フィルムがかけられるたび、DVDデッキの再生ボタンが押されるたび。デビ・カムダは永遠に「ファントムではなく、イーグルだ」と言い続けなければいけない。「オイチサーン」と言い続けなくてはならない。いや、言わされ続けなければならない。

 それだ、それこそが、南條玲子の走りの正体なんだ。決まり切った運命だから、雄琴のトルコ街を抜け、白い犬の幻を追い、包丁を片手に、走り続ける。それが決められているからだ。

 それを決めたのは、脚本なんというちゃちなもんじゃない。もっと大きなものだ。この我々の島国をのせたこの天体をふくむ星系をふくむさらに大きな銀河の、それ以上の、ありとあらゆる天体の創造から決められていたことだ。

 「ファントムではなく、イーグルだ」。おしなべて、本当のことはつまらない。それは、ファントムではなくてイーグルなのだ。イーグルでなく、ファントムだ、ということはありえない。そのようなヴァリアントは許されない。なぜならば、そこは映画だからだ。

 だからいつまでも、「ファントムではなく、イーグルだ」。どうしようもないんだ、デビ・カムダ。「ファントムではなく、イーグルだ」。それは「ファントムではなく、イーグルだ」からだ。巻戻ってみせようとも「ファントムではなく、イーグルだ」し、早送りしてまた頭から観ても「ファントムではなく、イーグルだ」った。「ファントムではなく、イーグルだ」、「ファントムではなく、イーグルだ」、「ファントムではなく、イーグルだ」。

 わかるだろうか、「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。

だから、南條玲子は男を刺した。

 なぜ刺したのか。俺には、はじめ、皆目見当がつかなかった。だが、今の俺は、映画の正体を、『幻の湖』の正体を知ったから、知ったからわかる。南條玲子は、『幻の湖』から、このくそみたいな映画から、逃げて、逃げて、逃げて、逃げた先に、さらに神を殺そうとして、あの男を殺した。あの最後の、すばらしい走り。加えられた一撃! 人造人間エヴァンゲリオンの走り方は、南條玲子へのオマージュだ。俺はそう思う。走って、殺す。神を殺そうとする。神は殺されつづける。


 ほら、今、運命は死んだんだ!

 でも、「ファントムではなく、イーグルだ」。おかしい、たしかに刺したはずなのに! 「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。「ファントムではなく、イーグルだ」。おかしい、たしかに刺したはずなのに! 『幻の湖』は終わらない! 「ファントムではなく、イーグルだ」。
 「イーグルはすでに実戦配備についている」

 ……だから、映画を観る我々は、笛なんだ。大気の外にあって、永遠に……永遠に近いほどのあいだ回転する天体とともに、距離をとって、同じ位置から、その証として、回りつづけるんだ。
 だがしかし、もう言わなくてもいいだろう……。我々もまた、永遠の虜囚。決定論の鼠。俺が笛なのでも、電子パルサーなのでもない。ただ、「ファントムではなく、イーグルだ」。永遠の虜囚、永劫、同じことをずっと見つづけるだけ。『幻の湖』を見つづけるだけ。俺の自由意思なんてこれっぽっちもない。俺は、脚本なんてちゃちなものじゃなくて、もっと大きなものに決定されているんだ。

 だから、俺は走って、走って、走って、やがて南條玲子みたいに、刺すことができるかな? 神殺しを、試みることができるかな?
 俺は、映画がこんなに悲しいものだとは知らなかった。

 本当に、知らなかったんだ。

 こんなものが、永遠だなんて。

 でも、俺は見てしまった。

 『幻の湖』を見てしまったのだ……。

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