僕の本来の実力を丸裸にする七つの質問とその答えについて

1)「仕事において、成し得たいことって、持ってそうだねー。これから、どんなことを今の会社でやりたいの?

 この業界、長くないと思うし、この会社、長くないと思うんだよね。もう限界までに切り詰めているし、次の世代、今さら新しい人材を雇うような余裕がいっさいない。
 ひょっとしたら、関わりのあった業界の方で拾ってもらえる可能性もあるけど、そううまくはいかないから、今のうちにできるだけ自転車に乗って、体を鍛えておこうと思うんだ。まず、体力が必要になる、そこのところなんだ。

2)「へー。素敵だねー。具体的にはどんなことを考えているの?」

 はっきりいって、どんな他業種の安い賃金であっても、今の賃金とたいしてかわらないんだ。どこでもいい、となったら嘘になるかな。でも、僕はあんまり腕力はないんだよね。だから、土木作業とかは無理だと思う。だから、たとえば介護とか、そういう方向じゃないかと思っているんだ。もちろん、介護にだって力は必要とされるだろうし、簡単な職場じゃないってことはよく知ってる。でも、あんまり男ばかりの職場というのも苦手なんだ。男が嫌いなんだよ。

3)「おー。すごい!明確だね!その夢を実現する上で、あるべき自分って、どんな自分だと考えているのー?」

 まずはやっぱり、一に体力、二に体力。そして、最後には、やっぱり鉄のような心が必要だと思うんだ。動じないというか、無感動というか、怖がらない、恐怖しない、萎縮しないかわりに、喜びや楽しみを交換で失ってもかまわないとすら思っているよ。僕はなんというか、機械のような人間になりたいんだ。動揺なんて必要ないんだよ。

4)「なるほど!明確だね。すごいなー!ホントに。。じゃー、理想の自分を100点だとすると、いまの自分って何点くらいなのー?」

 個人輸入している食べ物で、ずいぶんフラットな心情を保てるようになってはいるんだ。あとは、僕の見た啓示の夢と、禅と、ブランキの永劫回帰でいくぶんは自由になれたんだ。だから、一人一殺の個人的なテロリズムを胸に秘めることによって、逆転の平和のようなものもあるわけだし、それなりによろしくやれているから、たぶんまあ、80点はあげてもいいと思う。正直、もう死んでもいいかな、というのは嘘じゃないんだ。たぶん、こないだのサイクリングの帰りに、ダンプカーに正面衝突して死んでも、そんなに悔いはなかったと思う。そりゃ、次の天皇賞の結果は気になるよ。気になるけど、たとえば僕が100年後に死んだって、200年先の競馬があるんだ。それは、どこかで諦めなきゃいけないところなんだよ。

5)「へー。なるほどー。残り20点って、何、何?」

 やっぱりそれは、食べ物が切れたときにどうなるかということと、本当に僕にそれができるのか、ということなんだ。俺に限らず、人間というのは「その時」にどうできるかということを、知ってか知らずか突きつけられて生きていると思う。いや、突きつけられてすらいない。「その時」に突きつけられるんだ。その時に、いったい何ができるのか、すべてはその訓練や予習に過ぎない、そんな見方もできるかもしれない。
 そして、「その時」に、たとえば自殺できる方がまだやさしい道であるような、そういう極限の選択をするときに、いったい僕には、できるのか、ということなんだ。あるいは、できないことができるか、ということかもしれない。いずれにしても僕は間違うだろうけれども、できるだけ自分とたがう間違えはしたくない。そこに対する、確信がなにもないんだ。その、未来に対する弱み、おそらく自分がなしえないであろうところが、足りないんだ。

6)「おー。自分の弱点についても分析できているんだね!すごいなー。他に必要だと思うスキルってあったりしますかー?」

 たとえば、スーパーのレジで「1,026円です」って言われたときに、大きなお札しかないとするでしょ。そのときに、すっと一万円札と五十円玉を出せるかどうか、そこのところの計算力だと思うんだ。今の僕には、まだその力が足りない。出したとしても、その直後に、「自分はなにかとりかえしのつかない間違いを犯したんじゃないか」という気になって、顔が赤くなって、汗が止まらなくなる。わかるかな、この話の要点が。僕には、足し算や引き算の直観が必要なんだよ。それはずっとそうだったんだ。

7)「なーーるほど。。。難しそうな課題ですねー。それを補うために、いまやっていることって何ですかー?」

 こないだ、スーパーでね、僕の前に並んでいた女性、それは僕と同じくらいか、ちょっと下の、いかにも普通のOL風の人だったんだけれども、レジの計算が終わったあと、財布を覗き込んで、毅然としてこう言い放ったんだ。
 「これ、全部いいです」
 そうして、そのまま颯爽と出口の方に歩いていった。店員が「全部ですか」と言ったときには、もう立ち去っていたんだ。呆気にとられた。とられたと同時に、あれでいいんだと思った。あれもありなんだ、と。
 だから僕は、おそれずに、意味の分からない硬貨になったとしても、できるだけ積極的に、その算数の地獄につっこんでいこうと、そう決意したんだ。
 でも、僕は思うんだけれど、店員の方で算数ができるのだったら、そこはもう「五十円玉か百円玉ないですか?」と言ってきてほしいんだ。いや、じっさい、言ってくれる店員も少なくない。けど、そこを徹底するのが、社会をよくするんじゃないかと思う。
 もちろん、僕みたいに算数ができないのに、レジ係をしている人だっているよね。だったら、レジの入口で財布をスキャンすればいいんだ、レジスターが。ほら、インフルエンザ対策の赤外線体温計測器みたいなのあるでしょ。それで、一気に計算してくれて、「いくらです」というのでなくて、「おまえの財布の中から五千円札一枚と十円玉三枚、五円玉一枚、一円玉一枚出せ」というような、そういう指示を出せばいいと思う。
 今はまだ漠然としていて、夢みたいな話なんだけれども、そうなればいいと思っている。算数で苦しむくらいなら、機械に財布の中身を知られるくらいなんともないんだ。それに、もしも会計時に足りないとなっても、それとなく先に知らせてくれるかもしれない。僕は、そうなればいいと思ってる。本当に、心から。