田舎もなし、都会もなし、いまや故郷もなし

 このあたりを読んで、なにかこれといって感じられない俺がいた。俺の個人史には田舎も都会も出てこないと思った。俺はどこで生きてきたのだろう。

ものすごく狭い世界の話をします


 ものすごく狭い世界の話をする。なぜならば俺は、昔も、今も、異常に行動範囲が狭い人間だからだ。
 俺は、札幌で生まれた。生まれてすぐに鎌倉に引っ越してきた。以来、鎌倉で四半世紀近く育った。
 鎌倉って田舎だろうか。よくわからない。そりゃあ、高いビルもない。地下鉄も走ってない。田舎といえば田舎だろう。ただ、どうも、旅先で「あー、田舎だなー」と思うような感じ、鎌倉市には薄い。薄くないですか? 観光地、であるかもしれない。でも、たとえば京都などに比べればそんなにすごくない。こぢんまりしている。ただ、郊外というか、地方都市というには、なんというか、もうちょっと個性があるような気がする。津村や西鎌倉は地味な住宅街かもしれないが、湘南モノレールとか走ってる。
 そんな俺が、たとえば小学生のころどう思っていたかというと、なんというか、どうもよくわからない。東京が都会、横浜が都会という意識はあったが、それはたとえば腰越に対する藤沢、その延長線にあるというだけ、という印象。
 ……と、このあたりは、もう本当に地元自慢に近い。別にたいしたことのない地方都市だ、鎌倉。大学で、名古屋から出てきた人に「鎌倉って静岡県?」といわれたときのショック(それを言った人がのちにフジテレビのアナウンサーになって二重のショック。ひきこもりのニートしてて、ボケーッとテレビ見てたら、知った顔が出てきやがんの、二十七時間テレビのスポンサー読み上げだよ。あのときの、なんというか、愕然とした思い出は、ほとんどトラウマに近い。いつか書こうと思う。というか、もうここで書いてしまったからいいや)。でも、たしかにそうなんだ、その程度にすぎないんだろうな。

 でもまあ、俺という俺が感じたところに、どうもそこは都会でも田舎でもないような、どっちつかずであって、はっきり言って、ちょっと都会/田舎/その他話になると、どこに足場を置いていいかわからん気がするのだ。たとえば、都会と田舎の人間関係の薄さ、濃密さなどと言われても、はたして自分が育ってきた環境がどっちにどう分類されるのかわからん。いや、誰もが顔見知りというような、そんな濃密さはなかったか。近所の冠婚葬祭づきあいとか、なんか祭りとか、そういうものにはかなり冷淡だったというか、ほとんど存在していなかった。というと、都会か? でも、都会ではないよな。だいたいまあ、土地柄、集合住宅というものに住む人の割合なんて一割二割で、街に独り暮らしの若者なんてものも少なく、都会っぽくもない。なんというか、よくわからん、「普通でした」と、よくわからん一般化をしたくなるような。

それで鎌倉をうしなって横浜に出てきて

__________<中断>____________
 
 ……この上まで昨日、下書きで書いていたんだけれども(最近、下書き機能使うようになった。操作ミスでブラウザ閉じたりすることが頻発したので)、いや、ちょっと待て、なにかおかしい。なんか違う。
 そうだ、そもそも、やはり、なんというか、「都会vs田舎」的な、「都会or田舎」的な、そういう構図があるとして、俺がどうもそこに入って行けないのは、やはり冒頭に書いた「なぜならば俺は、昔も、今も、異常に行動範囲が狭い人間だからだ」というところに尽きるんじゃねえの、と。あんまり、育った土地の事情とか関係ないのでは。
 いや、それも違うな。俺がそのような人間になったという背景に、俺の育った土地が無縁ではありえない。でも、そのあたりの心理学的な、俺のあずかりしらん俺についてはちょっとわからん。ただ、俺が俺の育った土地を、地方を、いくら客観的に見ていこうとも、いや、そういう話じゃねえよ、その育った環境を含んだ俺だよ、というところに行きつくんじゃねえのか。
 で、俺なんだ。鎌倉育ちの俺。俺は俺の土地で育ってしまったから、なんつーか、先すすめねー。「俺がもしも東京の子だったら」とか、「俺がもしも田舎の子だったら」とかいう、そういうタラレバというのは、成り立たないと、そういうところになる。空想する、東京育ちの俺は東京育ちの俺であって、田舎育ちの俺は田舎育ちの俺であって、それぞれの俺はそれぞれに俺だろうけれども、今の俺とは違う俺であって、いずれにしても「異常に行動範囲が狭い人間」である可能性もある(血統、家庭環境などが同じであるとして)が、一方で、まったく違うかもしらん。
 で、違う方を想像するとすれば、ステレオティピカルな都会観、田舎観に当てはまるだけの、凡庸なそれにすぎず、なんというか、トポフィリアのほとばしりや、俺が俺の世界を見る、そこんところの、何らかの、俺性は出てこねー。それで、別に俺にとって俺の俺性は特別なものだけれども、まあ一般的にはたいしたこのないものだろうけど、俺が俺の月並み(←キーワード化されてるのでクリックしたら、非常にためになった。知らない人は読んだ方がいい)な都会観、田舎観を書き連ねたところで、何にも出てこね−。本当に、あるのは、俺が身を以て感じる、細かいトポフィリアだけだ。それならある、けど、他を論じる材料がねー。

要するに俺は世界と相対してこなかった!

 と、要するに、俺はどうも、ともかく、狭い狭い俺性の中に溺れるばかりの俺であって、育った鎌倉でなにを為そうとか、その地域の人たちと接しようとか、そういう意思も経験もなかった。たまたま、物心についたら鎌倉にいて、また、たまたま、中学に合格したから逗子に行き、たまたま、大学に合格したから、大学にちょっとだけ行って、ドロッパウトして、それで、競馬やってるから川崎や大井に行き、いろいろあって、今横浜あたりにいて、なんというか、場があったから「そこ」というだけで、要するに、全部流され、流されなわけであって、そんなに人間にとって、都会だの田舎だのというものは、人生のためにどうであるとか、将来のためにどうであるとか、そういう能動的な選択の対象ではありえないし、損得勘定もなければ、将来設計とも関係ない。好き嫌いですらなく、なんとなくに支配されていた。

 畢竟ずるに、積極的な選択らしい選択もなく、逃げて、逃げて、逃げ続けて、なんとなくそこにいて、ここにいるばかりであって、まったくもって、たとえば、日本か外国かとか、田舎か都会かとか、オンラインかオフラインかとかいうこともなく、よくわからんが、まあけど、鎌倉も横浜も好きですよ、というあたりであって、まあ、その点ではめぐまれていると、まあ自分では思うばかりであって、人様に、何ら言えることはないのであった。つーか、俺、札幌生まれ、湘南育ち、いまハマっ子、すげえよくね? 自己完結、やったー!

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