興福寺創建1300年記念「国宝 阿修羅展」に行ったこと


阿修羅行列

 混雑怖い。でも行きたい。ということで、8時半上野駅着というスケジュール。公園に入るとルーヴルの方にも行列などあり、やや焦る。道を渡って平成館。チケットを持っている人は入館の行列へ。持っていない人は、チケット販売の列へ。

 われわれは、手数料無料のネット経由のクレジット払い、自分プリントという方法でチケットを持っていた。これは大正解。いや、別にコンビニかどこかで買ってもいいのだけれども、ここはかなり時間を分けると思う。
 しかしその後、四人一列に並ばされ、開館まで待つことになる。これが炎天下や雨の中であれば悲惨だろう。今朝は涼しい曇り、並び日和。はじめ、18頭立てで4〜5番手につけたかと思っていたが、どんどん増える行列を見るに、ほとんどハナを切ってるに近いと知る。
 開館。整然ともぎりへの列。が、プリントアウトチケットはバーコード読み取りを使うため、別の列へ。プリントアウト組は少数。階段を登る。さあ、スタート。

阿修羅選択

 まず出てきたのは、なんか発掘品の皿とか。遺跡品、みてえな。……正直、あんまり興味ねえけど。と、なんかもう、無視して先に行く人たちが。足早に部屋の奥に消えていく……。あ、阿修羅先取り計画? うわー? どうする? せっかくかなり早く入れたんだ、行こう!
 と、二部屋くらいスルーしたところで、足が止まる。八部集登場どーん。阿修羅だけ特別扱いされてるけど、これも同格。でも、部屋ガラガラ。すげえ、一人占めとはいかないけれども、数人占めくらいの空間。あー、写真撮りてー(もちろん禁止です)、てな近さ、邪魔のなさ。というわけで、まずこっちをじっくり見た。頭部と右腕しか残ってない五部浄なんか、なんつーか、すごいよ。これは、正解だったな。十大弟子像の方もじっくり楽しめた。迦旃延なんて、なんかドヤで見かけるおっさんみたいで、なかなかいい顔していた。

阿修羅実物

 さて、その後阿修羅へ。もう、入口からして特別。すげえ、このモニタの使い方意味あんの? みてえな。で、遠目に登場、阿修羅さま。
 ……おお、細い、細いね。顔が、小さいね。ふうむ。
 ……なんちゅうか、これはあやういな。すごいあやうい。エロい。フェティッシュだ。俺はもう、そう思ったんだからしょうがない。なんというか、この身体のラインちゅうもんがね、なんというか、腹のところとかな。ただ、横から見ると、足の角度がちょっとなんか気にはなったけれども、だ。あのね、腕も細いしね。うん、そんなところ。

まあ、結局、仏像の見方はようわからんのだけれども

 そんでまあ、あともでかい四天王とか、迫力あったな。でも、まあ、八部集と、阿修羅、そのあたりの方がよかった。薬王菩薩像のでかいのなんかも、けっこうグッときたけれども、まあそんなところ。
 つーか、俺、仏像の見方はようわからんわ。あー、なんかそりゃ、彫刻作品とか美少女フィギュア見るみてえに、好きなように鑑賞することはできるわ。とくにまあ、お寺でなく、こういう風な展示だと、ありがたさはあるにしても、どうしてもなんかまあ、ちょっと手を合わせる対象というところにはならんというか。
 ああ、それで、仏像の見方だけれども、たとえば、この指の形は何を現し、あの装備はなんの象徴で……みてえな、そういう知識じゃねえの。そういうのはないの知ってるけど、そういうのでもない。あと、飛鳥時代の技法とか、運慶がどうだとか、そういうのでもない。そうじゃなくて、その、仏教にとって、仏像ってなんだよ? みてえな。
 で、ちょっとこの日のために予習していた本、金子大榮の『佛』(昭和19年発行……戦時下の本。さあ、この内容については気になるところがいくつかあったので、いずれ触れたい)という本。これめくってて、こんなこといってんの。

 ……さういふことを思ひますと、繪に畫いた佛さまも、木に刻んだ佛さまも、皆、佛さまなのである。佛さまは何處にある、といふ人があるけれども、奈良へ行つて御覽なさい。佛さまがあるのである。「如來何れにありや」なんかと、インテリが佛教を非難でもするやうな調子で言ひますけれども、佛教徒に言はせますと、奈良へ行つて御覽なさい。佛さまがおゐでになる。かういふ返事が能きる。

 「さういふこと」というのは、昔の人が、一刀三拝で命を刻んだ仏さまというのは、現代の彫刻家の作品とは違うんだぜ、って。いや、現代っつっても、昭和19年くらいの話だけんど、なんかこの金子先生は、本当にいいものは飛鳥時代奈良時代で、弘法大師ですらちょっとだめだ。鎌倉時代以降は、あんまりいいものはねえ、くらいの調子でdisってるので、まあそういうことで(この見方に引っ張られて、今回、四天王より八部集、十大弟子、とか思ってしまった可能性は否めない。作者の名前が残ってるようなやつは、作家としてのエゴ、技巧への驕りが見受けられてよくないな、みてえな、俺、何様だよ)。
 ええと、ともかく、なんか、そのあたりのサクッと割り切った感じがいいね、仏教、と。一方で、道元なんかは、人が凍えて死にそうなら、仏像なんか燃やして暖を取れって言うしさ。
 なんか、偶像崇拝でもねえし、でも像こそは本物の仏さまだって言ってる、それも本当なんだよ。どっちもだ。そこんところを色即是空、空即是色とか言っていいのかどうか俺にはわかんねーけど、たぶん、なんか、俺は仏教のそのあたりのさじ加減が好きなんだな、うん。まあ、そんなところで。

追記______________________
 仏像の見方っつーか、使い方というか、そういう意味では、正三(wikipedia:鈴木正三)の二王禅ってのがあった。あれはなんか目に鱗だった。『驢鞍橋』に書いてあったと思うけど、素人が坊主のマネして坐禅くんでも眠くなるだけだって言うわけ。それで、手本にするのは、二王(仁王)様だ、二王様の仏像みてえに、目ぇひんむいて、歯食いしばって、てめえの煩悩を組み伏せろって、そんなの。
 で、そうなると、なるほど坐禅の仏像は坐禅の手本かもしれねえし、まあそんな風に見てもいいだろうとか思う。でもって、手本って言っても、なんつーか、たぶん、その、仏の宿った像のマネなら、たんにポーズではすまないっていうか、そういうところがあるんじゃねえのって。

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