佛教ライフ・オン・マーズ

 先に阿修羅像展に行つたときに觸れましたが、金子大榮『佛』といふ本を讀みまして、其處に氣になる箇所が幾つかありましたので、今日は素晴らしいと思つた部分について、少しばかりメモ致します。
『佛』金子大榮著/昭和19年

 ……お釋迦樣は此の世の中にお出ましになつた佛樣でありますが、併しこの大きな天地の中に於て、人間の住む世界といふものは、此の娑婆だけではない筈である。佛教の説によりますれば、この天地の間には、無量無邊の世界があつて、さうしてその無量無邊の世界に、皆人間のやうなものがをるのであります。さうすれば、此の世の中へお釋迦樣がお出ましになつたやうに、又、何處かの世界には何かの佛が出ておゐでになるに違ひがない。今日で申しますと、天井に輝く星は、皆、一つ一つの世界である。その星の中には、もう既に人間の住まなくなつた星もあるでせうし、又、住めない星もあるでせうが、澤山の星の中であるからして、何か生き物の住んでをる星もないとは限らない。火星などには、何か生き物が住んでをつて、時々人間の世界へ合圖するやうであるから、人間世界でも、また、何か火星の方へ合圖をしなければならない。將來は、戰爭は、歐洲戰爭だの世界戰爭だの、そんな戰爭はみんな清算されてしまつて、火星と地球と戰爭するやうになる、といふやうなことまで空想されてをります。さうしますと、此の大いなる天地の間には、澤山世界があるに違ひがない。さうすれば此の娑婆世界へお出ましになつたやうに、又、何處かの國へは、その世界へ佛がお出ましになるに違ひがない……

 此のくだりには、心動かされずにはをられないものがありました。127頁、「十方諸佛」といふ章のまくらに置かれた話です。これは講演を元にした本でありますので、すぐれた佛教者の説法らしく、聽き手の興味をひくやうな、そんな箇所ではあります。しかし、如何でせうか、當に此はSFの精神、宇宙精神に滿ち溢れている!
 そして又、私が即座に思ひ出したのは、ブランキ『天体による永遠』である。

我々の地球も他の天体同様、絶えず同じ自己を生み出し、何十億という自己の写し星と共に存在する、原初の化合物の反復体なのだ。それぞれの写しは、それぞれに生まれ、生き、そして死ぬ。過ぎ去っていく一瞬ごとに、何十億という写しが生まれ、そして死ぬ。一つ一つの写しには、すべての事物、すべての生物が、同じ順序で、同じ場所、同じ時間に次々と登場する。それらは、瓜二つの別の地球上でも継起する。その結果、我々の星がこれまでになしとげ、また死滅するまでになしとげるであろうすべての出来事は、そっくりそのまま、何十億というその同類の天体上でも遂行されるわけである。そして、これはすべての恒星系においても同じ事情であるから、宇宙全体が、常時更新され常時同一性を保つ物質や人間の、終りのない、永遠の再生産の場となる。

『天体による永遠』ルイ・オーギュスト・ブランキ - 関内関外日記(跡地)

 此処で老ブランキは、無數の写しによる永遠性について述べてをられる。夜空に燦めく星々も、其れを構成するのは宇宙に存在する(我我の識る宇宙の!)元素である以上、同じやうなものが創られるといふ發想です。金子先生は其處まで言つてをられない。まあ一寸違ふといへば違ふ。然れども、無量無邊の世界があるならば、人もあり、佛もあり、といふ、やはり其處には、共通性を認めなくてはならん。
 いや、違ふ、さういふのではない。私にとつて、世界とはさうなのである。私は、世界をそのやうに見る。世界を構成する最小のものから最大全部に至る迄、あらゆるものはあらゆるものの写しであり、相似であると。全体は一部の中にあり、一部は全体の中にある。フラクタル宇宙。私はあらゆるものを其の樣に見るのです。其處には、科學も、創作も、佛の道も違わない。
 と、マア一寸、氣がふれた樣な事を述べてしまい、後悔してをるのでありますが、そんなところでせう。しかし、金子師は、「火星戰爭」などといふ發想を、何處から得たのでせうね? 佛典には色々のことが書かれてゐるのでせうが、流石に火星戰爭のことは記されていない筈。

 火星との戰爭となりますと、このあたりが最古典でせうか。出版されたのが1898年。さうすると、特に驚く樣なことはないのかもしれない。金子さんは1881年生まれなのだから、直截觸れた樣なことはなくとも、これに關する概略であるとか、或いはエピゴオネンに接する機会は幾らでもある。たれかとのお話しの中で出てくることだつてあらう。
 どうも、私の樣な戰後生まれの者にとつて、戰中、戰前と言ふと、何だか相當に旧い話の樣に感じられ、一寸、其の時代のかういつた部分の、当たり前の感覺といふものが判らないのでありますね。マア、明治の人が、江戸の人が、それ以前の人々が、どれだけの科學、技術の水準の中にあり、又、どのやうな空想を持ち得ていたのか。
 そして、その私の見積もりといふと、矢張り昔の人々を輕く見てしまうところがある。自分自身は科學や技術、單純な物理であるとか、化學について、算數について知らんのに、「所詮昔の人だから」と、何やら自分自身の生きる時代を總て我がものにしたやうな氣になつて、過去に對して大威張りする。
 とは云へ、かういふ思ひ上がりを諫めるやうなものもきちんと用意されてゐるのが人間の世界といふもの。さう、SFに於いては、現代人が、大威張りで過去世界に時間旅行して、電氣も何も無いところで手も足も出ないなんて云ふ話、ありがちなものでせう。それこそ、私などの世代では、そしておそらく、結構大勢の人が、ドラえもんなどに触れることで、幼少期から、そんな感覺を得ている。ある種の感覺が、養われてゐる。
 別にSFは教科書でも、教材でもない。しかしながら、時には教育や先生の話より、餘程この世界について、物理世界、人間世界について學べるところがある。私は其の樣に信じて疑わぬ。ヴオネガツトだかキルゴア・トラウトだかがよく述べていたが、SF作家ほどこの世界を眞劍に考へてゐる人種はをらんのだと。
 いや、話が佛教からいささか逸脱しすぎてしまつたやうだ。只、矢張り私は云ひたいのだが、その根柢の精神は同じであると。金子氏が態々火星の話を持ち出したところ、其處には、此処ばかりでない、人間の宇宙精神への擴がりがあり、それを指してゐるのだと。
 しかし、孤獨の探査機ケプラーの樣に、我我の精神は宇宙に飛び去つてそのままといふこともない。常に、俺は此処に居るのだと、往つて、還る、そのはたらきこそが、この人間の面白いところだと、さう何やらわかつたやうな、わからんやうな事を申し上げて、一先ず此処で筆を擱くことに致します。お別れの曲は、まあ豫想通りですが、ボウイの「ライフ・オン・マーズ」と致しませう。私は此より美しい音樂といふものを、なかなか思ひ附かない。