ゆえに、自由


wikipedia:決定論
wikipedia:自由意志
 決定論。とかいってもよくわかんねーけど、まああのトーロー要塞の老囚のいってたみてえに、宇宙を満たすものは有限の元素から組み合わさってできていて、そんなパターン限られていてさ、もう先までわかっている、決まっている、みてえな考えかたをするとすんじゃん。
 そうすると、なんつーか、一見不自由だけれども、ゆえにすげー自由じゃんって気がする。だって、もう、俺のやることなすことなんてのは、折り込み済みでさ、べつに世界がぶっこわれるようなことはないんだよ。いや、ぶっこわれたって、そんなのは、どっかの誰かが予定していたとおりのことであって、まあ俺のせいじゃないじゃんって、そんな風に思えるじゃん。するとさ、逆にさ、自由意志で決まっていくって方が、もうすげえ自己責任でうっとうしい。そう思えるじゃん。
 だからさ、決定してるんだって、なんか思い切ってぶちかましても、すげえ愚かなことしても、全裸で叫んでも、まあもう、いいじゃねえのって。まあ、いいわるいってのは、どのレイヤーでだよ? みてえな話もあるけど、なんつーか、俺の行いは俺の理性と感情によって俺が決定し俺が実行しそれによって生じた責任は俺がとらなければならない、なんてのは、ちょっと不自由じゃねえの、なんというか。
 でさ、なんか俺が今いってることってのは、すごい考え違いというか、なんというか論になってねえというか、論じているつもりもないけどさ。それにさ、俺自身、決定を信じているかといえば、あんまり信じられないというか、そんなんわかんねーって思うさ。
 それでもね、なんかね、こう、世界観とかいうと、すげえ大仰であれなんだけれども、なんかふと、「まあ世界ってそんなもんだろ」ってさ、そんなんで、なんか自由になれる心持ちになれれば、気休めになれば、いいじゃねえの。
 だいたい、「気休め」ってすげえじゃん。人間さ、どんだけ気が休まらないで、くるしんで、死んでるのかって話もあるし、俺、「そんなのは気休めだ」って、あんまり「気休め」を安く見積もるような物言いってのは、あんまりしたくないってところがあるんだけれども、話は逸れたんだけれども。
 で、なんちゅうかわからんけど、決定ゆえに自由、とかさ、なんか逆を行く、みたいな。たとえばさ、冒頭のさ、有限の元素から構成されてるから、われわれはコピーのコピーのコピーの……コピーに過ぎないなんていうのもさ、一見「われわれはオリジナルじゃないのか、コピーに過ぎないのか」みたいな矮小化につながるけど、けどさ、逆にさ、無窮無辺の宇宙においてさ、なんか元素だかなんだか材料が組み合わさってできた、唯一のオリジナル全部なんじゃないか、俺はって、そういう考え方だってできるぜ。コピーゆえにオリジナル。
 そんなわけで、まあ、ぼちぼち生きていこう、生きていかなくたってそれはそうだし、生きたところで、なんなんだし、まあ、好きにやっていこう、そのようにできてるんだよ、たぶん。それじゃあ。