平成六十一年、扇町一丁目交差点にて

1

 平成六十一年の……、まだ暑くもなければ、寒くもない、そんな季節だった。わたしは一張羅のボロ着を脱がされ、すこし裾の長い制服を着せられた。前任者の気配が染み込んでいるようだった。前時代の、警察官が着ていたようなものだ。その上から、ビニール製のレインコートを被せられ、わたしは扇町一丁目交差点に立つ。空は晴れてはいなかったが、雨もまだ落ちていなかった。
 「看板にもたれかからないこと、わかったな?」。担当者はそういった。わたしより二十、三十、それより若いかもしれない。「はい、ボートピアは、この道をまっすぐ行って左側にあります。復唱しろ」。わたしは復唱した。わたしはこれによって、寝床と三食の飯にありつける。ただそれだけのことだ。「はい、ボートピアは、この道をまっすぐ行って左側にあります」。

2

 わたしは、扇町一丁目の交差点に立った。見覚えのある景色のようにも思えるし、そうでもないかもしれなかった。わたしは、いったいどこからきたのか判然としなかった。昔、鎌倉に住んでいたような気がする。しかし、今や大仏も観音もごっちゃになり、なにもかもうすぼんやりとしていた。
 そうだ、なにもかもうすぼんやりとしていたのだ。わたしを取り囲む言葉のなにもかもは、わたしにとってわからないものになってしまっていた。言葉のないわたしは空っぽになっていた。わたしはもう何十年も、言葉をうしなって生きてきた。どこでわたしの言葉はおわってしまったのだろうか。追憶の道をたどるだけ、わたしの思考はつづかない……。

3

 「すみません」。気がつくと、ひとりの男が目の前に立っていた。わたしより年上か、年下か。年寄りになると数年の誤差などわからない。「このあたりに、横浜スタジアムがあるはずなんだが」。
 ……横浜スタジアム。カクテル光線、スーパーカートリオが次の塁をおびやかし、ポンセが打席に立ちはだかる。マウンドにはビジター用のユニフォームを着た川口。わたしは高橋慶彦の顔写真の入ったキーホルダーを握りしめ、ポンセの凡退をねがう。
 わたしは、こう言うべきだったのだ。「すみませんね、ほら、あの高いビルのあるところが、横浜スタジアムだったんですよ。今じゃ跡形もないのです」と。しかし、わたしはこういったのだ。
 「……田代、田代は引退したあと、ラーメン屋をやっていんですよ。知っていますか? 味はよかったらしいが、店が空色とピンク色に塗り分けられた悪趣味なものだったから、すぐに潰れてしまったらしい」と。野球、野球、プロ野球。今も野球は、どこかで続いているのだろうか。わたしにはわからない。ただ、横浜スタジアムはそこにあった。それは、覚えている。
 わたしは不思議と、言葉のわきあがるのをおさえきれなかった。「ところでお客さん、津田沼から来たのかな? 会ったことあるような気がする」。男は何もこたえず、わたしに携帯ゲーム機を渡した。「警備員さん、野球に詳しいと見える。ファミスタをやりませんか?」。

4

 わたしはまよわず広島を選んだ。先発はおおの? いや、背番号20を背負う男、二十世紀最後の二百勝投手、きたへふを選ぶ。きたへふのカーブは、えがわのカーブよりよくまがる。男は阪神を選ぶ。先発はいけだだ。いけだときたへふでは、格が違う。ただ、打線では阪神が上かも知れない……。
 打席におさないが立った。男は言う。「長内って、青森県出身で唯一100本塁打を記録したって知ってます?」。私はこたえる「長内って、ずっと神奈川出身だと思っていたんです。青森出身って知ったときには、裏切られたような気がしたもんですよ」。
 わたしは、わたしの奥底から湧き上がる言葉に圧倒され、一方的にまくし立てた。ただ、目と指はしっかりとファミスタの白球を追っていた。
 「100本塁打といえば、石井琢朗は学生時代一桁の本塁打しか打っていなかったのに、カープ移籍後のハマスタで打ったんですよ。2000本塁打到達者の中では、一番おそいんじゃないかな?」とわたし。
 「フランク・マンコビッチ」と男。
 「フィルキンスって外国人がいたんだけれど、すぐに首になったんです。でも、江藤の後釜に座るはずだった、ジェフ・ボールよりは長くいたんですよ」とわたし。
 「フランク・マンコビッチ」と男。
 「お客さん、平塚学園って知ってます? SMAPの中居君の出身校なんだけれども、なぜか広島にね、岩崎と青木って二人も獲ったんだ。でも、どっちも活躍できなかったんですよね」とわたし。
 「フランク・マンコビッチ」と男。
 「長嶋清幸って、学生時代は不良として有名だったんですよ。彼がはじめて背番号0をつけた選手なんですよね」とわたし。
 「フランク・マンコビッチ」と男。
 「フランコヘンダーソン、フェルナンデス、マクレーン、ブリトーアンヘルブリトーエンジェル・エチェバリア!」とわたし。
 「フランク・マンコビッチ」と男。
 「マルチネスパチョレックポンセ、ブラウン、ロードン、ランス、チェコ!」とわたし。
 「フランク・マンコビッチ」と男。

5

 ……「フランク・マンコビッチ」。そうとうの時間が経っていた。わたしはわたしの言葉に圧倒されて、喉もおかしくなっていた。それでも、わたしの言葉は止まらなかった。涙もとまらなかった。それでもわたしは声を振り絞った。「ほ、ほら、あの内野手ホエールズ、ち……、ちょう、銚子、銚子利夫、ちょうし……」。
 気がつくと、男は立ち上がってこちらを見ていた。ゲームは終わったのだ。
 「18勝20敗、あなたの勝ちだ」と男は言った。「そうだ、これをプレゼントします」。そういうと、わたしに一枚の券を手渡した。わたしはわたしが負け越したことを知っていたが、こういうときはこうするものだと、なぜか納得して、「ありがとう」とそれを受け取った。
 その券には「トーワヒヨシマル」と書いてあった。
 「あなた、競馬をやるでしょう。当たるかどうかわからないけれど、よかったらレース見てください」と男。
 ……競馬? 競馬。
 「……大崎は、一千勝できますかね?」とわたし。
 「九十二年はすごかった。八大競走大崎昭一小島貞博清水英次村本善之の四人で四勝、重賞は十四勝の当たり年だった」と男。

6

 わたしは、場外でレース実況を見る。障害競走だ。わたしのトーワヒヨシマルは四角で追い上げる。だが、いいところを見せたが、掲示板に載るのがやっとだ。わたしの馬券は外れてしまったのだ。わたしは胸ポケットにはずれ馬券を入れる。当たり馬券は財布に、はずれ馬券はポケットに。それがわたしの習慣だ。
 わたしは場外を後にする階段を降りて、外に出る。出た先はいつかの桜木町。それとも、浅草。もう、そんなことはどうでもいいんだ。そこは大井で、川崎で、あらゆる灰色の男たちの街だ。わたしと同じ色をした灰色の連中の灰色の街だ。わたしは、ポケットに手を入れて灰色の男たちの歩いていく方へついていく。あの男もどこかにいるだろう。
 わたしにはわたしの行き先がわからない。わたしの居場所もわからない。ただ、わたしはようやく安心していた。わたしには言葉があり、わたしのまわりには見知った世界があった。追憶の昭和、感傷の二十世紀。わたしはただ、そちらの方へむかって歩いていくのだ。

<完>


あとがき

 これはurbansea氏と私の、四十年後の物語である。これは実際に起こったことである。おしまい。

関連______________________